朝の西陣は、機の音で目を覚ます。

 整然と響くその音は、柊屋の奥まった一室にまで届いてくる。澄乃は床の中でしばらくその律動を聴きながら、昨夜交わした言葉の欠片を、ひとつひとつ拾い集めていた。

 ――最初から、知っていた。

 一郎の声が耳の奥で繰り返される。素性を打ち明けた瞬間の、あの冷えた静けさ。怒りでも驚きでもなく、ただ穏やかに、知っていたと言い放った青年の横顔。澄乃はあの顔に何を見たのだろうと、薄闇の中でひとり問い続けた。明後日、廻廊へ同行するよう命じられた。それだけは確かだった。ならばまだ、ここにいてよいのだ。そう言い聞かせながら、澄乃はようやく布団から身を起こした。

    *

 糸が姿を現したのは、午前の茶の時刻も過ぎた頃のことだった。

 澄乃が蔵の目録を帳面に写していると、廊下を鳴らす足音が近づいてきた。歩き方でわかる。地を踏みしめるような、あの重い拍子は糸のものだ。

「一郎はどこです」

 声が廊下を突き刺した。番頭の文吉が「旦那様は帳場に」と答えるのが聞こえる。澄乃は筆を止めた。

 やがて帳場の方から、糸の声が高くなるのが聞こえてきた。壁越しでも、その張りつめた気配は伝わってくる。澄乃は帳面を伏せ、廊下へ出た。近寄るべきではないとわかっていた。それでも足が動いた。

 帳場の引き戸は半ば開いていた。

「これを御覧なさい」

 糸が卓上に書類を叩きつける音がした。澄乃は柱の陰から、息を殺して覗き込む。

「藤原の娘が奉公に来たときから怪しいと思うておりました。没落したとはいえ公家の末裔が、なぜ商家の下働きに来るのか。調べさせましたら、案の定。この娘は家の蔵に何か秘密があると睨んで入り込んだ。柊屋の財産を狙う狐でございます」

 一郎は書類には手を触れなかった。

「知っています」

 短い二語だった。糸の肩が、目に見えて跳ね上がった。

「……なんですって」

「澄乃が藤原の末裔であることは、雇い入れる前から承知していました」

 糸の目が細くなった。帳場に居合わせた文吉と若い手代の顔が、同時に強張るのが澄乃の目にも映った。

「承知の上で……お前は……」

「そうです」

 一郎の声は揺るがない。机上の書類を一瞥したが、それきり視線を上げた。

「ではなぜ黙っておいでだった」

「叔母上に報告する義理はありません」

 静かな言葉が、帳場の空気を薄く切った。糸の顔に朱が上った。積み重なった怒気が、ついに堰を越えた。

「黙りなさい!」

 糸が立ち上がり、帳場を飛び出した。廊下へ踏み出した拍子に、澄乃と目が合った。

 その刹那、糸の表情が変わった。

「丁度よい。皆、聞きなさい」

 糸の声が廊下に響き渡った。機の音が止まる。奥の間から女中たちが顔を出し、土間からは職人が首を伸ばした。糸は澄乃の腕を掴み、ぐいと廊下の中ほどへ引きずり出した。

「この娘は柊屋の財産を狙う狐です。公家の末裔と称して奉公に来たものの、その目的は蔵の秘密を盗み出すこと。柊屋に仇なす家の血を引く娘を、皆さんはこれまで仲間と思うていた。騙されていたのですよ」

 静寂が落ちた。誰も口を開かない。澄乃は正面を向いたまま、ただ立っていた。

 こんなとき、言い返すべきだろうか。否定するべきだろうか。だが喉は固く閉じていた。財産を狙っていない、とは言える。しかし蔵に用があったことは事実だ。素性を隠して奉公したことも事実だ。どこまでが嘘で、どこからが誠か、自分でも今は整理がつかない。

 女中の一人が目を逸らした。文吉が困惑の色で口をもごもごさせた。若い手代だけが、気まずそうに床を見ていた。

 じわりと、胸の底に何かが滲んだ。孤立、という言葉がよく似合う感覚だった。ここに来てから積み上げてきた日々が、一枚一枚、剥がれ落ちていくような心地がした。

 どこかで、朱乃の声が聞こえた気がした。夢の中でいつも語りかけてくる、あの古い声音。

 ――泣くな。

「澄乃の雇用は、私が決めます」

 声がした。

 澄乃は顔を上げた。

 一郎がいた。帳場の引き戸に肩を預け、廊下の一同を見渡していた。いつものように感情を抑えた顔だったが、声の奥に何か、これまでとは違う重さがあった。

「叔母上のお言葉はご意見として承りました。しかし柊屋の人間を雇い、留め、あるいは暇を出すのは、この家の主の仕事です」

「一郎」

「その主は私です。叔母上ではありません」

 糸が息を呑んだ。長い沈黙が廊下を支配した。

「……この娘が藤原の末裔だとわかっていて、なおお前は庇うというのですか」

「庇うのではありません」

 一郎は澄乃の方を見た。一瞬だけ、その目が澄乃の目と交わった。

「澄乃は柊屋に必要な人間です。それだけのことです」

 糸の口元が歪んだ。何かを言おうとして、しかし言葉を飲み込んだ。その手が着物の袖を握りしめ、やがて糸は踵を返した。廊下を渡る足音が、遠ざかり、消えた。

 残された廊下に、機の音がゆっくりと戻ってきた。女中たちが散り、職人が土間へ引き返した。文吉が何か言おうとしたが、一郎の視線を受けて口を閉じ、深く頭を下げて帳場へ戻った。

 二人だけが廊下に残された。

 澄乃は、自分の手が微かに震えていることに、今更気がついた。拳を握り、緩め、また握る。

「一郎様」

 声が掠れた。澄乃はやり直した。

「……ありがとうございます」

 一郎は澄乃を見た。

「礼はいりません」

「それでも、申し上げたかったのです」

 静かな朝の廊下に、二人分の気配だけが残っていた。一郎は少しの間、澄乃の顔を見ていた。何かを測るような目でも、試すような目でもなかった。ただ、見ていた。

「震えているなら、お茶を飲みなさい」

 それだけ言って、一郎は帳場へ戻った。

 澄乃はしばらく動けなかった。廊下に差し込む朝の光が、白く床板を染めていた。頬が熱い。涙でも怒りでもない、名前のない熱が、静かに胸の中に満ちていた。

 必要な人間です。

 あの声が繰り返される。合理主義を纏い、感情を見せない青年が、奉公人たちの前であの言葉を口にした。財産云々などではなく、ただそれだけを言った。

 澄乃は奥歯を噛んだ。泣くものか、と思った。だが目の奥が、じんと熱を持った。

 明後日、廻廊へ行く。朱乃の眠る場所へ、一郎と共に降りる。この家の秘密と、百年前の誓いと、そしてまだ名前のつかない何かを携えて。

 それまでに、気持ちを整えなければならない。

 澄乃は廊下の柱に額をあてて、ひとつ深く息を吐いた。

 蔵の方から、風が渡ってきた。花の匂いがした。この季節に咲くはずのない、古い花の香りが。

春泥の誓いと、百年眠る花嫁

29

糸の暴走

宵待 紬子

2026-06-11

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第29話 糸の暴走 - 春泥の誓いと、百年眠る花嫁 | 福神漬出版