三月の朝は、まだ冷気に芯があった。

 澄乃は前日の夜から幾度も目を覚まし、夜明け前にはとうとう床を抜け出していた。薄暗い鏡台の前で結い上げた髪は、いつもより念入りに整えた。着物は紺地に細い縞が入った木綿で、華美でもなく粗末でもない。没落したとはいえ、藤原の家で叩き込まれた所作だけは、貧しさで削ぎ落とすことができなかった。それが今日という日に、吉と出るか凶と出るかは、わからなかった。

 口入れ屋の岩田から届いた文には、「巳の刻に大門より訪ねよ」とあった。西陣の大路を歩くうち、澄乃の耳に遠く、規則正しい音が届いてくる。機を打つ音だ。トン、トン、と地の底から湧き上がるような低い響きが、石畳を伝って足裏に届く気がして、澄乃は一度足を止めた。

 柊屋は、遠目にも大きかった。

 切妻の屋根が連なり、格子造りの表構えは重く落ち着いた威厳を持っている。屋号を染め抜いた暖簾が春風にわずかに揺れ、その向こうに人の出入りがあった。荷を担いだ男衆が行き来し、呼び声が飛び交い、すべてが潤滑に回っている歯車の一部であるように動いていた。

 澄乃は帯を一度押さえ、門をくぐった。

 「岩田屋の紹介でまいりました、藤と申します」

 取次に出た小僧は澄乃を上から下まで見て、「お待ちを」と奥へ引っ込んだ。待つ間、澄乃は土間に立ったまま、柊屋の内を目に収めた。広い帳場には帳面と算盤が並び、奥には反物が積み上げられた棚が続いている。どこかから機の音が聞こえる。壁に掛かった暦の下に、小さな招き猫が置いてあった。左手を上げている。商売繁盛の願いが、この家の日常に溶け込んでいるのだと澄乃は思った。

 「藤さんどすか」

 低い声が来た。

 振り向くと、そこに立っていたのは、二日前に柊屋の前で澄乃を見つめた女だった。

 柊糸。

 昼間に見ると、あの夕暮れの印象よりも若く見えた。四十に届くかどうかという年頃だろうか。深い藍の着物に黒い帯を締め、髪は隙なく結い上げてある。顔立ちは整っているが、目の奥に光るものが、かすかに冷たい。

 「はい。藤澄乃と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

 澄乃は深く頭を下げた。膝を折り、畳に手をついた頭の角度まで、身体が自然に動いてしまう。それが公家の躾というものだった。

 一瞬、静寂があった。

 顔を上げると、糸が細い目でこちらを見ていた。見ている、というよりも、検分している、という言葉の方が近い。値踏みとも違う。何かを測ろうとしている。あの夕暮れに向けられた視線と、まったく同じ種類のものが、今もそこにあった。

 「ちょっとおいで」

 糸は澄乃を帳場脇の小部屋へ連れた。文机と座布団が置かれた、おそらく来客用の間だった。二人が向き合って座ると、糸はすぐには口を開かなかった。

 「ご出身は?」

 「京の生まれです。両親を早くに亡くし、縁者もなく」

 「どこで奉公のお作法を?」

 「子どもの頃より、親しい方のお宅に出入りして覚えました」

 答えながら、澄乃は心の中で気を引き締めた。嘘は言っていない。ただ、本当のことを言っていないだけだ。藤原の家の者であること、没落した公家の末裔であること、それを隠すために「藤」と縮めた名を使っていることも。

 「読み書きは?」

 「はい」

 「算盤は?」

 「多少は」

 糸はまた黙った。今度は少し長かった。窓の外から機の音が届いてくる。トン、トン、と一定の拍子で。それだけが部屋の中に満ちていた。

 「うちは女衆の入れ替わりが多うてな」

 ようやく糸が口を開いた。

 「なかなか根付かんのどす。それでも構わんと思うのやったら、使うてみましょか」

 採用、ということだった。

 澄乃は礼を言い、もう一度頭を下げた。胸の中に安堵が広がった。これで柊屋に入ることができる。蔵の中を探せる。家が抱える過去に、少しずつ近づけるかもしれない。

 「ありがとうございます。精一杯努めます」

 「そやね」

 糸は短く言って立ち上がろうとした。その動きがふと止まる。

 「一つ、聞いてもよろしいか」

 「はい」

 「あなた、和歌はお好きどすか」

 予期しない問いだった。澄乃の心が、一瞬揺れた。

 「……なぜそのようなことを?」

 「さあ、なんとのう」

 糸は澄乃の表情をどこか楽しむように眺めて、「そういう顔をなさる方やと思うてただけどす」と言った。意味のわからない答えだった。澄乃は「好きでございます」とだけ返した。

 糸はそれを聞いて、かすかに頷いた。その顔に何が浮かんでいたのか、澄乃には読めなかった。

  *

 柊屋の内を案内してくれたのは、糸ではなく、おせんという三十がらみの女衆だった。丸い顔に人懐こい笑みを持ち、澄乃を「澄乃さん」と最初から呼んだ。

 「大きい家どっしゃろ、最初は迷子になりますえ」

 おせんは笑いながら、澄乃を帳場から奥へと連れて歩いた。工房には十台ほどの織機が並び、職人たちが黙々と手を動かしていた。横糸を通すたびに机全体が振動し、あの音が生まれている。空気の中に絹の匂いが漂っていた。澄乃は思わず足を止めて、その光景を見つめた。

 「きれいどしょ」

 おせんが隣で言った。

 「はい」と澄乃は答えた。きれい、という言葉では足りない気がしたけれど、他に言葉が見つからなかった。

 工房を抜けると、中庭があった。梅はもう散り、地面に薄く白い花びらが残っていた。春泥の季節だ、と澄乃は思った。柔らかい土が、踏まれるたびに小さな沈みを作っている。

 中庭の奥に、蔵があった。

 黒漆喰の壁が、静かに佇んでいた。鉄扉がかかっていて、南京錠で閉じられている。入り口の前に、注連縄が下がっていた。注連縄は、祭事のためのものではなく、常時かかったままになっているように見えた。

 澄乃の目が、そこで止まった。

 「あの蔵は?」

 「古いもんが入ってるらしゅうて。わたしらは入らんのどす」

 おせんはさらりと言った。

 「鍵は?」

 「糸さんが持っておいでやす」

 それだけだった。おせんはもう次の場所を案内しようとしていた。澄乃は視線を引き剥がすように蔵から目を離した。

 ——注連縄が、古かった。

 縄が変色し、紙垂が雨風に何度も晒された色をしていた。いつからかけられているのか。そしてなぜ、普通の蔵に注連縄が必要なのか。

 それよりも。

 鉄扉の隙間から、澄乃はかすかに何かを見た気がした。光ではない。色だ。白い。雪のような、あるいは花びらのような、白。

 気のせいかもしれない。暗い蔵の中に、白いものがあるはずがない。

 けれどもそれは確かに、澄乃の目の端に残った。

 「澄乃さん、こちらどす」

 おせんの声に引き戻されて、澄乃は歩き出した。泥の柔らかい中庭を横切る間、背中に蔵の気配を感じ続けた。

  *

 その夜、澄乃は古い屋敷に戻り、荷物をまとめながら、糸の最後の問いを思い返していた。

 ——和歌はお好きどすか。

 なぜ、あの女はそれを聞いたのか。立ち居振る舞いに気づいたからか。それとも、何か別のものを——澄乃の中に流れる血筋を、見透かしたとでもいうのか。

 答えが出ないまま、澄乃は行燈の明かりの中で着物を畳んだ。

 柊屋の門は、くぐった。

 けれどもあの蔵の扉は、まだ閉じている。

春泥の誓いと、百年眠る花嫁

3

柊屋の門をくぐる日

宵待 紬子

2026-05-16

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第3話 柊屋の門をくぐる日 - 春泥の誓いと、百年眠る花嫁 | 福神漬出版