三月の終わりに降る雨は、春を待ちわびた大地を泥のように柔らかく解かす。

 澄乃が岩田の長屋を訪ねたのは、そういう薄曇りの午前のことだった。軒先に干された洗い物が湿った空気を吸って重たく垂れており、細い路地には雨上がりの泥がまだ乾かずにいた。父・道彦から聞いた岩田という名は、かつて藤原家と細い縁でつながっていた周旋屋で、今は西陣界隈で奉公人の口入れを細々と営んでいるという。

「これはこれは、お嬢さま」

 引き戸を開けると、六十がらみの小柄な男が帳面から顔を上げた。岩田は一目で澄乃と分かったらしく、深く頭を下げながらも視線だけはするりと彼女の着物を値踏みした。繕いの跡のある紬だ。その視線の意味に澄乃は気づいていたが、恥じることはしなかった。

「岩田さん、お久しぶりです。父が世話になっております」

「いえいえ、こちらこそ。さ、どうぞお上がりください。お足元が」

 土間にはまだ泥が跳ねていた。澄乃は草履を揃えて丁寧に脱ぎ、狭い座敷に上がる。岩田は茶を用意しながら、澄乃が切り出すのを待っていた。そういう慎み深さが、この男を長らく信頼されてきた理由なのかもしれない。

「奉公の口を探しています」

 澄乃は真っ直ぐに言った。遠回しにすれば、互いに惨めになるだけだと分かっていた。

 岩田はしばらく黙って茶を置き、それから静かに一つ息をついた。

「道彦さまから、少しは伺っておりました。……柊屋のことは、ご存じですか」

 初めて聞く名だった。澄乃が首を振ると、岩田は膝の上で両手を組み、語り始める。

「西陣の大通りに面した呉服問屋でございます。代々、西陣織の卸と仕立てで名を馳せた老舗。今の当主は柊一郎さまという、まだお若い旦那さまで……先代が三年前に身罷られてからは、そのお方が一手に切り盛りしておられます。ここ一月ほど、奉公人の募りをかけておられましてな」

「どのような奉公ですか」

「帳場の下働きと、内の取り次ぎ。帳面が読み書きできて、礼儀をわきまえた女子を探しているとのことで……お嬢さまのような御方ならば、申し分ないかと存じますが」

 岩田の言葉には奥行きがあった。申し分ないとは、澄乃が公家の娘であるということへの含みだろう。だが同時に、それは隠さなければならない事柄でもある。

「一つ、お願いがあります」

 澄乃は背筋を正した。

「私のことは、藤澄乃という者だとお伝えください。藤原、ではなく、藤。それだけの娘です」

 岩田はかすかに目を細め、それからゆっくりと頷いた。

「承知いたしました。藤澄乃さん、ですな」

 名を略すことへの後ろめたさが、澄乃の胸に薄く刺さった。しかし父が眠る家を守るために、今は藤原澄乃である必要はない。藤澄乃でよかった。それで十分だと言い聞かせる。

「柊屋の旦那さまは、どのようなお方ですか」

 問いながら、なぜそれを聞くのかと自分でも思った。奉公先の主人がどんな人物であれ、働きに行くことに変わりはないのに。

 岩田は少し考えるような間を置いてから、口を開いた。

「頭が切れるお方です。先代が亡くなられてからの三年で、商いを随分と立て直されたと聞いています。西洋の帳簿のつけ方を取り入れたり、東京の呉服店と直の取引をされたり……古い職人衆には煙たがられることもあるようですが、それでも結果を出しておられる。若くして、なかなかの手腕です」

「評判は?」

「よろしくはない、とだけ申しておきましょう」

 岩田の言い方はやんわりとしていたが、澄乃にはその重さが伝わった。

「気難しい、ということですか」

「……人を寄せ付けない、というほうが正しいかもしれません。ただ、理不尽な御方ではないと聞いています。筋の通らないことはなさらない。そういう意味では、誠実なお方だと思います」

 誠実。澄乃はその言葉を心の中で転がした。気難しく、孤独で、しかし筋を曲げない。それがこれから仕えるかもしれない主人の輪郭だった。

「もう一つ伺ってもいいですか」

「なんなりと」

「柊屋には、蔵がありますか」

 岩田が眉をわずかに上げた。唐突な問いだと分かっていた。しかし澄乃には、それを聞かなければならない理由があった。父が最後に見せた朱乃の肖像画。百年前の姫の面差しが、あの夜から澄乃の瞼に焼き付いて離れない。

「ございますよ。古い蔵が、屋敷の奥に一棟。柊屋の創業からあると言われている、由緒ある蔵だそうです」

「そうですか」

 澄乃はそれ以上は問わなかった。

 岩田との話を終え、澄乃は大通りへ出た。西陣の街は、泥濘んだ三月の空の下でも活気に溢れていた。どこかの織元から機の音が聞こえてくる。ちゃかちゃかと規則正しく刻まれるその音は、澄乃には聞き慣れないはずなのに、なぜか遠い記憶を揺すぶるようだった。

 大通りを少し歩くと、格子戸に柊の紋を染め抜いた暖簾がかかった建物が見えてきた。柊屋だと、すぐに分かった。老舗のたたずまいというものは、看板がなくとも自ずと分かるものだ。重厚な木造の建てつけ、磨き上げられた式台、隙のない格子。長い年月を経ても揺るぎない何かを、その建物全体が纏っていた。

 澄乃は立ち止まり、遠目にその構えを見つめた。

 足を踏み入れることへの恐れではなかった。それよりも、奇妙な引力のようなものを感じていた。まるでずっと昔から、この場所を知っているような。

 ——春の泥に 沈む根のごと 待ちわびて

 気づけば和歌の上の句が口をついて出ていた。続く言葉が出てこない。父の書棚にあった古い歌集に載っていた歌か、あるいは夢の中で聞いた言葉か。はっきりしないまま、音だけが唇の上に残った。

 その時、柊屋の格子戸が内側から開いた。

 出てきたのは三十がらみの女だった。黒羽二重の着物に、金の帯締め。抜き紋がひとつ、白く光っている。身なりは整っているが、その目の鋭さが柔らかな装いと釣り合わなかった。女は通りに出て、澄乃と目が合った。

 澄乃は軽く会釈をした。通りすがりの女と目が合ったときの、ごく自然な礼儀として。

 しかし女は立ち止まり、澄乃をしばらく見つめた。ただ見るのではなく、値踏みするのでもなく——記憶の引き出しを探るような、奇妙な視線だった。

「あなた、どちらの御方ですか」

 声は穏やかだったが、問いの中に棘があった。

「藤と申します。このたび、柊屋さんへ奉公に上がりたいと考えている者です」

 澄乃は落ち着いて答えた。動揺を見せなかった。

 女はもう一度、澄乃の顔をゆっくりと見た。その視線が澄乃の着物の衿元、次に鬢の生え際、そして手の形へと移っていくのが分かった。品定めではない。確かめているのだ。何かを。

「……そうですか」

 女はそう言って、わずかに微笑んだ。微笑みの形は美しかったが、その奥に何が隠れているか、澄乃には見えなかった。

「柊糸と申します。当家の者です。ぜひ、いらしてください」

 それだけ言って、女は静かに歩き去った。

 澄乃は見送りながら、背筋に細い寒気を感じた。春の夜風でも吹いたかのような、唐突な冷たさだった。

 ——あの人は、何かを知っている。

 根拠はなかった。ただそう感じた。公家の娘としての直感か、あるいは朱乃の肖像画を懐に入れてから澄乃の内側に宿った、別の何かの警告か。

 大通りを流れる人波の中で、澄乃はしばらく動けずにいた。やがて机の上で決断した覚悟を、もう一度、静かに確かめるように息を吸う。

 藤澄乃として、柊屋へ行く。それだけだ。

 機の音がまだ聞こえていた。ちゃかちゃかと、糸が絡み合うように。春の泥はまだ乾かず、澄乃の草履の裏に少しだけ張り付いていた。

春泥の誓いと、百年眠る花嫁

2

西陣の糸は金の色

宵待 紬子

2026-05-15

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第2話 西陣の糸は金の色 - 春泥の誓いと、百年眠る花嫁 | 福神漬出版