梅が散っていた。
白い花びらが一枚、また一枚と濡れた地面に貼りつき、春の泥に溶けていく。庭石の苔は黒ずんで久しく、手入れの行き届かぬ枝はあちこちに徒長したまま、それでも梅だけは今年も律儀に咲き、そして散った。
藤原澄乃は縁側に座り、ひび割れた柱に背を預けながら、その散り際をひとり見つめていた。
手の中には一通の書状がある。三度読んだ。四度読んでも、文字は変わらない。
徳田金融所より催告。元金並びに利息の総計、金三百二十円也。来月末日までに御返済なき場合は担保物件の処分を執行する。
三百二十円。
呟いてみても、その数字は現実の重さを持たなかった。持てなかった。藤原の家で生まれ育った澄乃には、そもそも金というものが砂粒ほどの実感しかなく、だからこそこの数字が持つ意味の恐ろしさを、頭で理解してもまだ体が受け入れようとしない。
風が吹いた。書状の端がめくれ、梅の花びらが一枚、縁側に舞い込んできた。
澄乃はそれを拾い、指先でそっと包んだ。
*春雨に濡れて散りにし白梅の、匂いばかりは袖にのこれり。*
父が好んだ歌だった。誰の作かも知れぬ古い一首を、父は澄乃が物心ついた頃から折に触れて口ずさんだ。澄乃もいつの間にかそれを諳んじていた。意味が分かる前から言葉を覚え、言葉の意味が分かった後も、その寂しさの正体がまだ分からずにいる。
今ならば少し、分かるような気がした。
散っても、匂いだけは残る。
それは慰めなのか、それとも呪いなのか。
―――
藤原家の屋敷は、京の上京区の外れに今もひっそりと建っている。かつては公家の邸宅として格式を誇ったというが、澄乃にはその栄華を示す記憶が一切ない。気づいた時には既に、柱は傾き、塀は崩れ、蔵の鍵は錆びついていた。
父、藤原有紀は五年前から病の床にある。
医者は肺だと言った。養生すれば悪化はしないとも言ったが、快癒するとは言わなかった。その言葉の端を澄乃はよく覚えている。医者の目が父から逸れた瞬間の、わずかな陰りを。
有紀は元来、学者肌の男だった。公家の血筋を誇るよりも古い文書を読み解くことに喜びを見いだし、家の台所が傾いても蔵の整理より書物の整理を先にした。借財が膨らんだのは有紀の代からではなく祖父の代からだが、有紀がそれを放置し続けたことは確かで、澄乃はそのことを責める気にも、かといって許す気にもなれないでいる。
責めれば父が悲しむ。許せば自分が壊れる。
だから澄乃は黙って、帳簿をつけ、質屋に通い、古い着物を畳んで売り、それでも足りない分を頭の中で計算し続けた。二十歳の娘がすることではないと言う者もあったが、言わせておけばよかった。誰も助けてはくれないのだから。
三百二十円。
澄乃は再び数字を心の中で転がした。
質に出せるものはほとんど出し尽くした。残っているのは屋敷と土地と、それから父が決して手放すまいとする蔵の中の品々だ。蔵を開けて売れと何度か言いかけて、そのたびに飲み込んだ。父の目が、その言葉を予期するように曇るから。
縁側から立ち上がり、澄乃は書状を懐に収めた。泥の匂いが庭から漂ってくる。梅の花はもうほとんど落ちて、枝だけが濡れて光っている。
*散り際の梅よ、お前はまだ美しい。*
そう思いながら、澄乃は父の部屋へ向かった。
―――
有紀は起きていた。
布団の上に半身を起こし、膝の上に一冊の古びた帖を広げている。澄乃が障子を開けると、父はゆっくりと顔を上げ、目を細めた。
「澄乃か」
「起きていらしたのですか。今日は少し顔色がよろしいですね」
「春になったからな」
有紀はそう言って、静かに笑った。六十に届かぬ齢なのに、その顔はずいぶん老いて見える。病がそうさせたのか、それとも憂いがそうさせたのか、澄乃には分からない。
澄乃は父の傍らに膝をつき、書状をそっと畳の上に置いた。
「また届きました」
「……そうか」
「来月末日です。お父様、もう、蔵のものを」
「ならぬ」
即座だった。有紀の声は弱々しいのに、その一言だけは芯を持っていた。
「蔵のものは売らぬ。あれは売り物ではない」
「しかし屋敷が」
「屋敷が潰れても、あれだけは守らねばならぬ」
澄乃は唇を噛んだ。
何度繰り返したか分からない問答だった。父が頑として譲らないことも知っている。それでも言わずにはいられなかったのは、もう他に言葉を持たないからだ。
沈黙が落ちた。有紀は膝の帖に目を落とし、しばらく何かを読むような素振りをした。それから、おもむろに顔を上げた。
「澄乃、一つ見せたいものがある」
言いながら有紀は傍らの小箱を引き寄せた。桐の古い箱で、澄乃は見覚えがない。父が布団の中に隠していたのだろうか。
蓋が開かれた。
中には、巻かれた絹布があった。有紀の節くれだった指がゆっくりとそれをほどいていく。澄乃は息を詰めて見守った。
現れたのは、小さな肖像画だった。
縦一尺にも満たぬ板の上に、丁寧な筆致で描かれた女の顔がある。時代は古い。着物の意匠も髪の結い方も、江戸の頃のものだ。しかし画の保存状態は不思議なほど良く、色が褪せていない。
その女は、若かった。澄乃とさほど違わぬ齢に見える。切れ長の目に、きりりと結んだ口許。美しいというより、凛とした顔だった。何かを待ち続けているような、あるいは何かを待つことを諦めかけているような、その境界に立つ表情。
「誰ですか、この方は」
「朱乃、という」
有紀はその名を、まるで祈るように口にした。
「百年以上前の我が家の姫だ。幕末より少し前、嘉永の頃の人と聞いている。我が家に残された、ただ一枚の肖像画だ」
澄乃は画に顔を近づけた。
朱乃、という名。その顔の、目が。
なぜだろう。見知らぬ女のはずなのに、その目が自分を見ているように感じた。見ているのではなく、探しているような。何かを訴えようとして、しかし声が出ずにいるような。
「この方が、どうして」
「この方は、ある誓いを果たせぬまま亡くなった」
有紀は静かに続けた。
「相手の男がいた。当時の話だから詳しくは分からぬが、身分違いの恋だったらしい。誓いを結んだが、何かの事情で引き裂かれ、朱乃はその翌年に亡くなった。男の家も、その後間もなく衰えたと聞く」
「……男の家というのは」
「呉服商だったと伝わっている。名は覚えていない」
澄乃は画から目を離せなかった。
朱乃の目が、じっとこちらを見ている。
「お父様は、なぜ今これを」
「お前に継いでほしいのだ」
有紀の声が、わずかに揺れた。
「家名を継げとは言わぬ。屋敷も土地も、借財のためになくなっても構わぬ。ただ、この画を。この方の話を。お前に持っていてほしい」
「それは」
「澄乃」
父が澄乃の手を取った。その手は冷たく、骨ばっていた。
「お前には辛い思いをさせた。何も残してやれなかった。だが、これだけは渡しておかなければと思うておった。理由は、まだうまく言えぬ。ただ……お前が外へ出た時、きっとこの方が導いてくださる気がするのだ」
澄乃はしばらく黙っていた。
父の手を、両手で包んだ。
外では風が吹いて、散り残った梅の最後の一枚が庭へ落ちていく音がした。
三百二十円。来月末日。
もう、考えることは一つしかなかった。どこかへ奉公に出るしかない。身を削っても金を作るしかない。藤原の名など誰も知らぬこの世の中で、一人の女として働くしかない。
澄乃は画の中の朱乃を、もう一度見た。
誓いを果たせぬまま逝ったという、百年前の姫。
*私は逃げない。*
声に出さずに、しかしはっきりと、澄乃は心の内で言った。
それが誰への言葉なのか、自分でもよく分からないまま。
翌朝の京の街には、春の雨が降り始めていた。