秋の深まりを告げる風が西陣の路地を抜けていく。軒先に吊るされた染め見本の布が、色とりどりに揺れた。
柊屋の土蔵の裏手、石畳の隅に生えた苔が朝露を帯びている。澄乃は濡れた苔の青さをぼんやりと眺めながら、昨夜の朱乃の声を思い返していた。
——あの方はもう気づいている。
その言葉が、目覚めてもなお耳の奥に滲んでいた。一郎が何に気づいているのか。澄乃の素性か、それとも別の何かか。考え始めると底なしの沼に足を取られるようで、澄乃は白い息を一つ吐いて首を振った。
「澄乃さん、ここにいたか」
聞き慣れた軽やかな声が背後からした。振り返ると、宗像哲三が小脇に大きな風呂敷包みを抱えて小走りに近づいてくる。鼻の頭が赤く、息が少し弾んでいた。
「哲三さん。今日はまた随分と早うございますね」
「いやあ、昨夜から眠れなくてね。面白いものを見つけてしまったんだ」
哲三は眼鏡の縁を人差し指で押し上げながら、人好きのする笑みを浮かべた。しかしその目の奥には、いつもの戯れとは異なる真剣な光が宿っていた。澄乃はそれを読み取り、少し背筋を正した。
「少し時間をもらえるか。人のいないところで話したい」
二人は土蔵の脇道を回り込み、柊屋の敷地に隣接する古い梅の木の下に腰を落ち着けた。まだ葉を残す梅の枝が、薄い日差しを細かく砕いて地面に落としていた。
哲三は風呂敷を解き、中から一冊の帳面と、和紙を重ねて綴じた冊子を取り出した。冊子の表紙は黄ばみ、端が虫食いのように崩れている。触れるのも憚られるほどの年代物だった。
「京都府立図書館の資料室で見つけた。司書の爺さんがね、民俗学の研究者には見せてやろうと言ってくれたんだ」
哲三は冊子を慎重に開いた。墨の色が薄れ、崩し字で細かく書き連ねられた文字が並んでいる。
「幕末から明治初期にかけての、西陣の商家に関する記録だ。柊屋についての記述もある」
澄乃の胸が微かに跳ねた。
「柊屋の、記録」
「ああ。安政年間から明治初年にかけての家の動向が記してある。商取引の記録もあれば、縁組の話も出てくる」
哲三は丁寧に頁を繰り、ある箇所で指を止めた。
「ここだ」
澄乃は身を乗り出した。崩し字は読みづらかったが、公家育ちの澄乃には古い文字に慣れた目があった。唇の間で音を拾いながら、ゆっくりと読み解いていく。
——慶応二年、春。柊家ニ於テ、公家某家ノ姫君ト縁組ノ儀、進展ス。双方ノ合意ヲ見ルモ、秋ニ至リ破談トナル。姫ハ行方ヲ絶チ、以降ノ消息知レズ。
澄乃の指が、冊子の端に触れたまま止まった。
「破談に……なった」
「そう。理由は書かれていない。ただ、縁組が整いかけていたのに、突然なかったことにされた。そして姫は消えた」
消えた。その二文字が澄乃の胸に鋭く刺さった。消えたとは、どういうことなのか。出奔したのか。病に倒れたのか。それとも——。
「哲三さん、その姫の名は」
声が、わずかに震えた。自分でも気づかぬうちに問いが口をついて出ていた。哲三は澄乃の顔をしばらく見つめた。その視線は穏やかだったが、どこか確かめるような色を帯びていた。
「それが、ここには名が記されていない。だけど」
哲三は帳面の方を開いた。こちらは比較的新しい紙で、哲三自身が調査の過程で書き留めたらしい走り書きが並んでいる。
「別の資料から、名前を突き止めた。京都の旧家の由緒書きに、ほんの一行だけ記されていた。縁組に際して先方の家から贈られた品の目録の中に、姫の名が署名として残っていたんだ」
哲三は帳面の一点を指さした。そこには、丁寧な楷書でただ一つの名が書き記されていた。
——朱乃。
澄乃は息を呑んだ。
目の前の文字が滲むような気がした。いや、滲んでいるのは文字ではなく、澄乃自身の視界だった。まぶたの裏に熱いものが込み上げてくる。夢の中で何度も聞いた声。雨のような、泣き濡れたような、それでいて静かに深く響いてくる声。
——澄乃。あなたは覚えていますか。
「澄乃さん」
哲三の呼びかけに、澄乃はようやく顔を上げた。
「顔色が悪い。大丈夫か」
「……大丈夫です。ただ」
澄乃は言葉を探した。喉の奥に言葉が詰まって、うまく形にならなかった。
「その名は、知っています」
哲三の目が細くなった。
「どこで」
「夢の中で」
ひとこと言ってから、澄乃は自分でもその言葉の重さに驚いた。しかし嘘をつく気にはなれなかった。哲三は澄乃にとって、数少ない正直に話せる相手だった。
「夢の中で、誰かに呼ばれるんです。ずっと前から。子どもの頃からかもしれない。その声は名乗らないけれど、私はいつも、その声を朱乃と感じていた。根拠もなく、そう感じていた」
哲三は黙って澄乃の言葉を聞いていた。相槌も挟まず、ただ静かに。
「先日、初めて声に名前が伴った。夢の中で、はっきりと朱乃という声を聞きました」
「それはいつ」
「土蔵の奥、花嫁人形の前で倒れた夜の後からです」
哲三は深く息を吐いた。眼鏡の奥で、目が真剣な光を帯びていた。
「澄乃さん、一つ聞いていいか。あなたの家——藤原家の家系は、幕末にどこまで遡れる」
澄乃の背に、冷たいものが走った。
「父に詳しく聞いたことはありませんが、家の系譜は江戸初期まで遡ると聞いています。幕末の頃には、確かに家がありました」
「その家に、慶応年間に縁組の話が持ち上がったという記録は」
「……知りません。ただ」
澄乃は梅の木の幹を見つめた。黒く湿った樹皮が、くっきりとした陰影を刻んでいる。
「父が以前、ぽつりと言ったことがある。先祖に、不憫な姫がいると。それ以上は教えてくれなかったけれど」
しばらく沈黙が続いた。梢で雀が鳴いた。遠くで機織りの音が聞こえる。西陣の朝は、そうやって淡々と動いていた。
「朱乃は、この人形に宿っているんだと思います」
澄乃はようやく口を開いた。自分の声が、思いのほか落ち着いていることに少し驚いた。
「土蔵の奥の花嫁人形。あの人形の顔を初めて見た時から、どこかで知っている顔だと思っていた。会ったことがあるはずのない顔なのに。鏡を見るような、そういう感覚が」
「……澄乃さん、それは」
「私に似ているのかもしれない。朱乃と、私は」
哲三は静かに目を閉じた。
「一つの仮説を言う。あくまで仮説だ」
「聞かせてください」
「百年前に破談になった縁組。柊家と公家の姫。姫は消えた——つまり、死んだかもしれない。その恨みか、あるいは未練か、いずれにせよ何かが人形に宿った。そして百年後、その縁の再来として澄乃さんが柊屋に現れた」
澄乃は静かに頷いた。
「先祖の果たせなかった誓いが、私を引き寄せた」
「俺には証明できない。だが、学問では説明のつかないことが世の中には確かにある。特にこの国の古い縁というものは」
哲三は苦笑気味に言いながら、帳面を閉じた。
「澄乃さんはこれから、どうするつもりだ」
問われて、澄乃はしばらく考えた。逃げることを考えなかったといえば嘘になる。素性が露見する恐れも、一郎の目が鋭くなっていることも、澄乃は肌で感じていた。しかし朱乃の名を目の当たりにした今、もはや退くという選択が浮かばなかった。
「朱乃を、解き放ちたい」
声に出すと、それは不思議なほど自然に聞こえた。
「百年眠り続けた魂を、安らかにしてやりたい。そのためなら、私の素性が明るみに出ても構わない」
哲三は少し目を細めた。それから、柔らかく微笑んだ。
「そう言うと思った」
澄乃は微かに笑い返した。しかしその笑みの奥で、心の一隅がひっそりと締め付けられていた。
——一郎はもう気づいている。
朱乃の声が、また甦った。
朱乃を解き放つことと、一郎に真実を明かすこととは、おそらく同じ道の上にある。その道の先に何があるのかを、澄乃はまだ知らなかった。しかし花嫁人形の顔が、夢の中の声が、古い記録の中の名前が、すべて同じ方向を指し示している。
梅の木の根元に、一枚の黄ばんだ葉が音もなく落ちた。
その夜、澄乃は土蔵の前に一人立った。格子戸の向こうで、花嫁人形が暗がりに座っているはずだった。声はしなかった。夢でも現でもない、宙ぶらりんの静けさの中で、澄乃はただ呟いた。
「待っていてください、朱乃さん。今度こそ、必ず」
風が止んだ。そして遠く、柊屋の奥座敷に灯る明かりが一つ、ゆらりと揺れた。