朝霧の薄れぬうちから、柊屋の帳場には緊張が張り詰めていた。
澄乃が蔵の前での夜のことを反芻しながら廊下を拭いていると、番頭の徳兵衛が血相を変えて走ってくるのが目に入った。六十がらみの小柄な老人が、あれほど慌てた様子を見せるのは珍しい。
「澄乃、澄乃はどこだ」
声の方角へ顔を上げると、徳兵衛は雑巾を手にした澄乃を見つけ、ほっと息を吐いてから眉根を寄せた。
「坊ちゃまがお呼びや。すぐに来なはれ」
「私を、ですか」
澄乃は雑巾を桶に戻し、手を手拭いで拭いながら立ち上がった。一郎が澄乃を名指しで呼ぶことなど、これまで一度もなかった。
座敷に通されると、一郎は文机の前に端然と座り、羊皮紙のような厚みのある書状を手にしていた。傍らには見慣れぬ洋装の男が二人、いずれも青い目をして、澄乃を値踏みするような視線を向けてきた。
「英語が読めるか」
開口一番、一郎は澄乃の顔を見もせずに問うた。
「……多少は」
多少どころではなかった。亡き父、藤原惟光は若き日に横浜で交易に関わった経験があり、娘の澄乃に英語の手ほどきをするのを楽しみとしていた。家が傾いてからも、父は英語の書物だけは手放さなかった。だが今ここでそれを正直に明かすのは憚られた。
「多少、とはどの程度だ」
一郎がようやく顔を上げ、澄乃を見た。昨夜の月命日の夜と同じ、何かを確かめるような眼差しだった。
「読み書きと、簡単な会話ならば」
一郎は一瞬だけ沈黙した。それからするりと立ち上がり、書状を澄乃に差し出した。
「訳してみろ」
受け取った書状には、大阪の貿易商を介した生糸の買い付けに関する条件が英文で綴られていた。法律用語に近い文言も混じってはいたが、父の教えと独学の積み重ねで、大意は掴めた。澄乃は唇を一度きゅっと結んでから、静かに読み上げ始めた。
洋装の二人が顔を見合わせた。そのうちの年嵩の方が、澄乃に向かって英語で話しかけてきた。発音の癖は強かったが、内容は理解できた。生糸の品質保証と納期に関する確認だった。
澄乃は一拍置き、できるだけ落ち着いた声で答えた。心臓は喉元まで浮き上がっていたが、それを顔には出さなかった。
商談は一刻ほど続いた。一郎は要所要所で指示を出し、澄乃はそれを英語に変えて伝え、相手の応答を日本語に戻した。途中で専門的な織物の用語が出てきたとき、澄乃は少し言い淀んだが、幸い徳兵衛が小声で助け船を出してくれた。
最終的に、双方が合意の握手を交わした。洋装の二人は機嫌よく帰っていき、座敷には澄乃と一郎と徳兵衛だけが残った。
「坊ちゃま、これは上々の商談でございましたな」
徳兵衛が皺だらけの顔をほころばせた。一郎はただ「ああ」と短く返し、文机の前に戻った。礼の言葉はなかった。澄乃はそれを予期していたので傷つかなかった。ただ静かに一礼して退こうとすると、
「待て」
背中に声が飛んできた。
「今夜、荷の検分を頼む。お前の目は使える」
それだけ言って、一郎は書き物を始めた。澄乃は再び一礼し、座敷を出た。廊下に出た瞬間、息をどっと吐き出してしまった。膝が微かに震えていた。
◇
夕刻の検分が終わり、澄乃が裏口から外に出ようとすると、後ろから足音がついてきた。振り返ると、一郎が薄手の羽織を肩にかけて立っていた。
「同じ方向だ」
それだけ言って、一郎は澄乃の横に並んだ。同じ方向、というのは方便だと澄乃には分かった。柊屋の嫡男が奉公人の帰り道に付き合う理由など、普通はない。
石畳の細道を二人で歩いた。西陣の夕暮れは早く、糸屋や機屋の軒先に吊るされた提灯に火が入り始めていた。機織りの音がどこかから聞こえてくる。トン、トン、という規則正しいその音は、澄乃の幼い記憶の中にある公家屋敷の静寂とは全く異なる、生きた街の息吹だった。
「英語はどこで習った」
やはり来た、と澄乃は思った。
「父から少し」
「父は何者だ」
「商人でございます」
嘘ではない、と澄乃は自分に言い聞かせた。父は晩年、細々と骨董の仲介を生業としていた。商人といえば商人だった。
「横浜に関わりがあったか」
澄乃の足が一瞬だけ止まった。それを一郎は見逃さなかった。
「……少し」
「発音の癖がそう聞こえた。居留地に出入りする商人の英語は、あの調子になる」
一郎は淡々と言った。責めているのではなく、ただ事実を解析しているような口調だった。澄乃はこの男の観察眼の細さを改めて思い知った。
「お坊ちゃまは英語をどちらで」
話の矛先を変えようとして問うと、一郎は少し間を置いた。
「東京の学校と、書物だ」
「書物だけで、あれほど」
「理屈が分かれば言語は解読できる。感情より論理の方が覚えやすい」
澄乃はその言葉を、心の中でそっと転がした。感情より論理の方が覚えやすい。この人はいつも、感情を論理に置き換えようとする。まるでそうしなければ、何かが崩れてしまうとでもいうように。
「では、お坊ちゃまは感情は不要とお思いで」
問うてから、少し踏み込みすぎたかと澄乃は思った。しかし一郎は怒らなかった。
「不要とは思っていない」
短く、しかしどこか刃物のような鋭さを持った答えだった。
「ただ、感情は論理より先走る。そしてたいてい、人を間違った場所へ連れていく」
提灯の橙が石畳に揺れていた。澄乃はその光を踏まないように歩きながら、一郎の言葉の奥にある何かを感じようとした。それは哲学でも処世訓でもなく、もっと個人的な、血の通った傷のように思えた。
「でも、論理だけでは誓いは立てられません」
口から出てから、澄乃は驚いた。自分でも予期せぬ言葉だった。一郎の歩みが、ほんの僅かに遅くなった。
「誓い」
「はい。誓いとは感情の極みのようなものですから。論理で測れば、誓いの大半は不合理でございましょう」
言いながら、澄乃は夢の中の朱乃を思った。百年前に誰かと交わされたであろう、果たされなかった誓い。それを理屈で裁いてしまえば、呪いとも愛とも呼べぬただの因果になってしまう。
「お前は変わった奉公人だな」
一郎が言った。嘲りではなかった。声の底に、かすかな温度があった。
「申し訳ございません」
「謝ることではない」
二人の間に沈黙が落ちた。しかしそれは不快な沈黙ではなかった。機織りの音が遠ざかり、夜の匂いが濃くなってきた。
やがて澄乃が曲がるべき角に差し掛かった。
「では、こちらで」
一礼して路地に入ろうとすると、一郎が静止した。澄乃が振り向くと、彼は石畳の中央に立ち、提灯の光の中で澄乃を見ていた。その目に宿るものを、澄乃はうまく名づけられなかった。
「お前の父の名は」
予期しない問いだった。澄乃は心臓が一度跳ねるのを感じながら、微笑んだ。
「存じ上げていただけるような者ではございません」
そう答えて、澄乃は路地の暗がりに入った。後ろを振り返らなかった。振り返れば、この胸の騒ぎを見透かされそうな気がした。
細道を一人で歩きながら、澄乃は父の名を心の中で呼んだ。藤原惟光。公家の名。この名をいつまで隠し通せるか、澄乃には分からなかった。一郎の目は、論理を纏いながら、確実に澄乃の芯に近づいてきていた。
そしてその夜、澄乃が浅い眠りに落ちたとき、朱乃の声が聞こえた。
「あの方は、もう気づいておられます」
何を、とは問えなかった。目を開けると、部屋の片隅に一輪だけ、白い花が散っていた。どこから来たのか、誰が持ち込んだのか、まるで分からなかった。