社の軋みが、きゅう、と鳴った。
綾部紬はそれを聞いた瞬間、足を止めた。板張りの廊下に積もった薄雪が、草履の先でわずかに崩れる。夕暮れ前の光は柔らかく、杉林の向こうに消えかけていた。
ここへ一人で来ることを、誰も許していない。
けれど誰も、禁じてもいなかった。
村の掟には穴がある。人が想定しなかった場所に、いつも。紬はそれをずっと知っていた。問題は、その穴を知っていながら、これまで一度も使おうとしなかった自分にある。
戸に手をかける。木は湿気を吸って重く、押すとひどく抵抗した。それでも一歩踏み込めば、中の空気がどっと押し返してくる。黴と線香と、何か甘ったるいものが混じった、古い匂い。紬はそれを肺の奥まで吸い込んだ。
社の中は暗かった。
窓の格子から斜めに射し込む夕光だけが、埃の粒子を照らしていた。奥の祭壇に蝋燭はない。常夜灯の赤い光が、低く揺れている。
そして。
ケースが、開いていた。
硝子の箱は観音開きになっており、両扉がわずかに開かれたまま、誰かが去った後のような佇まいで置かれていた。叔父の透が今朝ここへ来た形跡はない。昨夜から誰も立ち寄っていないはずだった。それなのに。
花嫁人形は、ケースの外に出ていた。
白い打掛が、祭壇の縁に触れるか触れないかの位置に。両手を膝の上に置き、背筋を伸ばして座っている。まるで、誰かを待っていたかのように。
紬は息を止めた。
逃げようとは、思わなかった。不思議なことに、恐怖よりも先に来たのは、ある種の納得だった。選ばれた日から、ずっとこの瞬間へ向かっていたのかもしれない。白瀬先生が志津婆のところへ行くのを見送って、紬が一人でここへ足を向けたのも、きっと偶然ではない。
畳の上を、静かに進む。
近づくにつれ、人形の細部が見えてくる。白粉を重ねたような滑らかな頬。鮮やかすぎるほどの赤い唇。黒く塗られた眉。百年前に職人が込めた技が、今も生きている。腐食も、変色も、ほとんど見られない。まるで時間の外側に置かれているように。
紬は人形の正面に、膝をついた。
二つの瞳が、こちらを向いていた。
ガラスの目は光を反射して、常夜灯の赤をわずかに帯びていた。作り物の光、作り物の命。それなのに、見つめられている、と紬は思った。見つめ返している、と。
どのくらいそうしていたか、わからない。
動いた。
人形の目が、動いた。
左に向いていた視線が、ゆっくりと、紬の目を捉えた。首は動いていない。躰も動いていない。ただ、瞳だけが。硝子の球体の中で、何かが向きを変えるように。
紬の全身が、総毛立った。
それでも、動かなかった。
「あなたは」
声が出た。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「終わりたいの?」
社の中が、しん、と沈んだ。常夜灯の炎が一瞬揺れ、また静まる。杉林の外から、遠く、鳥の声がした。
人形は答えない。当然だ。人形は言葉を持たない。ただ夢の中でだけ何かを訴え、昼の間は沈黙する。それが百年来の定めだった。
けれど紬には、わかった気がした。
選ばれた夜から、紬の夢に入ってくるものがある。雪原の真ん中に立つ少女の後ろ姿。振り返ろうとして、振り返れない。名前を呼ぼうとして、声が出ない。ただ、手を伸ばしている。届かない場所へ、ずっと。
あれは怒りではなかった。
呪いでもなかったのかもしれない。
「わかった」
紬は静かに言った。
「待ってて」
誰に向かって言ったのか、自分でもよくわからなかった。人形に向かってか。夢の中の少女に向かってか。あるいは、終われない百年そのものに向かってか。
立ち上がると、膝頭がひどく冷えていた。いつの間にか、夕光が消えていた。社の中は暗く、常夜灯の赤だけが浮かんでいた。紬は一度だけ振り返り、人形の輪郭を目に焼き付けた。白い打掛の白。祭壇の闇。瞳の赤。
出口へ向かいながら、紬はもう一度、息を吸った。古い匂いが、今度は少しだけ違って感じられた。腐敗の匂いではなく、何か、長い時間が凝縮されたような、重さのある匂い。
戸を閉める。
軋みが、きゅう、と鳴った。
———
その夜、村が騒がしくなったのは、夜の九時を回った頃だった。
紬は自室の窓から外を見て、目を疑った。
雪が、溶けていた。
屋根から垂れた氷柱が、先端から滴を落としている。軒下に積もった雪が、じわじわと地面へ向かって崩れていく。畑の境に盛られた雪山が縮み、その下から黒い土が顔を出していた。
年の半分以上を雪に閉ざされるこの村で、冬の夜に雪が溶けることなど、あってはならないことだった。紬は生まれてから一度も見たことがない。村の古老たちでさえ、語り継ぐ記憶の中にも存在しない現象だと、後になって知れた。
廊下から、叔父の声がした。
低く、険しい声だった。
「外へ出るな」
紬は部屋の戸を開けなかった。ただ窓に額を押し当て、溶けてゆく雪を見続けた。地面が露出している。茶色い土が、雪の隙間から滲むように現れていた。根を張る草の枯れ残りが、夜の光にぼんやりと見えた。
これは、何の意味を持つのか。
紬にはわからなかった。ただ、社での出来事と関係がないとは思えなかった。
人形の目が、動いた。
あの瞬間を反芻する。恐ろしかったか、と問われれば、恐ろしかった。それでも逃げなかった。人形の中にいる何かが、怒りではなく、もっと別の感情を帯びていると感じたから。
百年待った少女が、ようやく誰かに問いかけを受けた。
もしかすると、あの雪は、それへの返答なのかもしれない。
翌朝になれば、また降り積もるかもしれない。一晩の異変として、誰かが封じるかもしれない。それでも今夜だけは、村の地面が空気に触れていた。閉じ込められていた土が、冬に息をしていた。
紬はカーテンを引かずに、窓の前に座り続けた。
白瀬先生は今頃、何を聞いているのだろう。
志津婆が「六十年待った」と言ったことを、まだ正確には知らない。けれど朔が翌日自分を連れて戻ると言ったとき、その目に何かが宿っていた。迷いではなく、決意でもなく、もっと複雑な、痛みを含んだものが。
紬はそれを、余計なことだとは思わなかった。
ただ、間に合うといい、と思った。
何に間に合うのか、まだわからない。でも溶けていく雪を見ていると、時間に限りがある気がした。流れ続ける水のように、止まらないものが動き始めている気がした。
窓の外で、土の匂いがした。
冬の村では嗅いだことのない、湿った、生きた土の匂いが、隙間風に乗って部屋の中まで届いた。
紬はそっと目を閉じた。
夢の中の少女が、今夜は振り返るかもしれない、とふと思った。