夜が最も長くなる日まで、あと二週間だと、朔は壁の暦を見ながら考えた。

 囲炉裏の火は落としてあった。灰の中にかすかな熱がのこっているだけで、教員住宅の一室は静まり返っていた。古文書の写しと志津の帳面とを並べたまま、朔は眠れずにいた。母の旧姓が綾部だという事実は、眠りの入り口を塞ぐ石のように、意識の奥底に重く沈んでいた。

 自分がこの村の血を引いている。

 そのことが何を意味するのか、頭ではもう理解していた。始祖の血を持つ者だけが「返し言葉」を紡ぐことができる。志津の帳面にはそう書かれていた。呪いを終わらせる義務は、呪いそのものと同じ年月をかけてある血筋に受け継がれてきた。そしてその末端が、よりによって都会から流れ着いた自分だったとは。

 朔は目を閉じた。

 その夜、紬は夢を見ていた。

 白い。

 どこまでも白い場所だった。雪ではなかった。紬はそれを確信していた。雪にはかならず重さがある。踏めば沈む。冷たさが足の裏から這い上がってくる。けれどもここは違った。白さだけがあって、重さもなく、冷たさもなく、ただ光のような静けさがあった。

 夢の中に入るのは、これで何度目だろう。

 最初の頃は恐ろしかった。人形が自分を見ている感覚。誰かの視線が首筋に貼り付いて離れない感覚。だが今夜は違った。怖くなかった。なぜ怖くないのかも、紬にはわかっていた。

 少女がいた。

 白い地の中に、ひとりで立っていた。紬より幼い。十二か十三か、そのくらいに見えた。着物は婚礼装束で、白い綿帽子をかぶっていた。顔が見えなかった。うつむいているせいではなく、顔の輪郭そのものがぼんやりとして、焦点が合わないように曖昧だった。

 それでも紬は、この子が誰なのか知っていた。

「桃」

 紬が名を呼ぶと、少女の肩がわずかに揺れた。

「……知ってるの」

 声は小さかった。子どもの声のはずなのに、どこか遠い場所から届くように聞こえた。長い時間を渡ってきた声のように思えた。

「知ってる」と紬は答えた。「朔先生が調べてくれた。あなたが百年前に奉納された最初の子だって」

 少女は動かなかった。しばらく沈黙が続いた。白さが揺れるように、ゆっくりと明暗を繰り返した。

「終わらせてほしい」

 桃が言った。

「ずっと待ってた。終わらせてほしいって、ずっとずっと言ってた。でも誰にも聞こえなかった。聞こえても、みんな怖くて、怖くて逃げていった」

「私に聞こえてる」

「知ってる」

 桃の声は静かだった。悲しんでいるとも怒っているとも受け取れない、ただ疲れたような声だった。百年分の疲れがあるとしたら、きっとこういう声になるのだと、紬は思った。

「どうすればいいの」と紬は聞いた。「終わらせるために、私は何をすればいい」

 桃はうつむいたまま答えなかった。紬は続けた。

「私が人形に魂を捧げればいい? そうすれば終わる?」

 沈黙が落ちた。

 今度の沈黙は、少し違った。少女の肩が下がった。白い綿帽子の縁がかすかに震えた。そして桃は首を横に振った。はっきりと、ゆっくりと、二度。

「違う」

 声が少し変わった気がした。初めて何かが滲んでいた。

「そうじゃない。そんなことをしてほしいんじゃない。私はもう、誰かに代わってほしくない。誰かに続いてほしくない。終わらせてほしいって、そういう意味なの」

 紬の胸に、何かが突き刺さった。

「百年間、続いてきた。十六年ごとに誰かが来て、また繋がれて、また続いていった。みんな私の代わりになったわけじゃない。でも私がいる限り、続いていく。私がここにいる限り、この縛りは終わらない」

「じゃあ」

「解いてほしいの」

 桃の言葉は静かで、しかし揺るがなかった。

「私を、ちゃんと終わらせてほしい。契約を最初からなかったことにしてほしいんじゃない。ただ、正しく終わらせてほしい。始まりに返してほしい」

 紬は息を吸った。白い空気が肺に入ってきた。

「それができる人がいる」と桃は続けた。「血を引いた人が言葉を返せば、私は終われる。ちゃんと終われる」

「朔先生のこと」

「知ってる人がいるって、わかってた。ずっとわかってた。でも怖かった。本当に終われるか、怖かった」

 紬は少女を見た。曖昧な輪郭の向こうに、何かがある気がした。百年前の夏の日差しのような、遠い懐かしさのようなものが。

「怖くない?」と紬は聞いた。「終わることが」

 桃はしばらく黙っていた。

 それから、綿帽子がほんのわずかに持ち上がった。輪郭のぼやけた顔が、少しだけ上を向いた。

「怖い」と桃は言った。「でも疲れた。もっと疲れた」

 紬が目を覚ましたのは、夜明け前だった。

 天井の木目が、薄明かりの中でゆっくりと浮かび上がってきた。布団の中で、紬は長いあいだ動かなかった。夢の感触が体の中にのこっていた。白い場所の空気が、まだ肺のどこかに残っているような気がした。

 桃の声が耳の中で繰り返された。

 怖い。でも疲れた。もっと疲れた。

 紬は瞬きをした。

 頬が濡れていた。

 自分が泣いているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。涙が出ているという実感がなかった。痛くもなく、苦しくもなく、ただ静かに何かが溢れていた。目の端から、温かいものがこめかみを伝って枕に吸い込まれていった。

 紬は泣き方を知らなかった。

 物心ついた頃から、この村で泣くことを誰かに禁じられた覚えはなかった。けれどもいつの間にか、泣かない人間になっていた。叔父の目が怖かったのかもしれない。花嫁人形の話を初めて聞かされた夜も、自分が選ばれたと告げられた朝も、紬は泣かなかった。泣くべき場所がどこかわからなかったから。泣くことの意味が、自分の中のどこにも見つからなかったから。

 でも今は、泣いていた。

 桃のために泣いているのか、自分のために泣いているのか、紬にはわからなかった。わからなくてもいい気がした。百年前に終わるべきだったものが終わっていなくて、そのことをずっと疲れながら待ち続けた少女がいたということ。そのことが、ただ悲しかった。

 紬は布団の中で膝を抱えた。

 声を立てなかった。すすり泣きもしなかった。ただ静かに、体の奥から何かが溶けていくように、涙だけが流れ続けた。

 長い時間が過ぎた。

 やがて涙が止まった。止まったとき、紬は少しだけ軽くなった気がした。何かを手放したわけでも、何かが解決したわけでもない。けれどもどこか、ほんの少しだけ、体の中に隙間ができたような感じがした。

 紬は起き上がった。

 窓の外、山の稜線が白く滲んでいた。夜明けの雪雲が空を覆っていた。冬至まで、あと十四日。

 紬は立ち上がり、着替えた。それから文机の引き出しから便箋を一枚取り出した。筆を持つ手が、かすかに震えていた。震えていることに気づいて、紬は少し不思議な気持ちになった。自分の手が震えるということが、昨日までの自分には想像できなかった。

 紬は便箋の中央に、ゆっくりと文字を書いた。

 先生に、話があります。

 それだけ書いて、紬は筆を置いた。窓の外で、雪がまた降り始めていた。細かく、静かな雪だった。白妻村の朝は、いつもこうして始まる。音もなく、静かに、容赦なく。

 でも今朝は、何かが違った。

 紬には、行く場所があった。

花嫁人形と、溶けない雪の村

30

冬至まで二週間

氷室 宵子

2026-06-11

前の話
第30話 冬至まで二週間 - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版