村役場の資料室は、冬の朝の光をほとんど取り込まない、北向きの狭い部屋だった。

 朔が戸籍の閲覧を申し出ると、窓口の中年の男は露骨に眉をひそめたが、「学校の生徒の家庭調査のために」と付け加えると、しぶしぶ奥の棚から古い綴りを取り出した。村の人間らしく、それ以上は何も訊かなかった。

 椅子を引いて腰を下ろしたとき、朔の指先はかすかに震えていた。昨夜、手帳に浮かんだあの文字のせいではない。いや、あの文字のせいでもあるのだが、それよりも、自分がこれから掘り起こそうとしているものへの、正体のわからない恐れがあった。

 綾部という家名を手がかりに、綴りを繰っていく。白妻村の戸籍は昭和三十年代から始まっていたが、欄外には手書きで「前帳より継続」と記されており、さらに古い台帳が別の引き出しに収まっているのを朔は見つけた。黄ばんだ紙の束を開くと、インクの匂いと、かすかに黴の甘い臭気が混じって立ちのぼってきた。

 綾部透の項を探す。

 彼の名は昭和四十三年生まれとして記されていた。その隣に妻の欄がある。

 ――綾部 結(むすぶ)。旧姓・宮城。生年昭和四十五年。婚姻届出昭和六十三年。死亡届出平成七年。

 平成七年。今から十年前。朔は指で年数を押さえながら、静かに計算した。結は当時、二十五歳だったことになる。若い。あまりにも若い。

 死因の欄は「病死」とだけあった。

 朔は視線を上に戻し、もう一度、宮城結という名を見た。旧姓の家を辿れば、何か分かるかもしれない。宮城という家名は村の中でも古い部類に属するはずだ、と朔は前任教師から引き継いだ学校の名簿を思い浮かべながら、別の棚に手を伸ばした。

 宮城家の台帳は、思ったより深いところに挟まれていた。

 そこに、朔は求めていたものを見つけた。

 宮城結の名の横に、鉛筆の細い字で書き込まれた注記があった。正式な記載ではなく、誰かが後から書き足したように見える、薄い文字だった。

 「昭和五十六年、神事対象候補。同年、解除」

 昭和五十六年。結が十一歳の年だ。いや、待て、と朔は指を止めた。十六歳で選ばれるという話を志津から聞いていた。十一歳ではまだ早い。ならば、これは候補として名が挙がったという意味ではなく――。

 朔はもう一度、注記を読んだ。「候補」ではなく、「対象」と書いてある。

 昭和五十六年といえば、結は十一歳。しかし、十六歳での記録を探して台帳を繰ると、昭和六十一年の欄に、同じ筆跡の書き込みがあった。

 「昭和六十一年、神事対象。同年十一月、対象解除。理由――血縁による保護」

 血縁による保護。

 朔は息を吐いた。長く、細い息が、資料室の冷たい空気に白く滲んだ。

 解除されたのだ。結は、花嫁人形に選ばれたが、何らかの理由によって免れた。そして二年後に透と婚姻し、平成七年に亡くなった。

 頭の中で、透の顔が浮かんだ。祭祀を取り仕切る壮年の男。朔を拒絶するその目に宿っていた、怒りとも哀しみともつかない光。あれは何だったのか、と朔はずっと考えていた。信仰の烈しさだと思っていた。村を守ることへの、狂信に近い献身だと。

 しかし今は、別のものが見えるような気がした。

 透は妻を愛していた。そして、その妻がかつて人形に選ばれかけた事実を、知っていたのではないか。

 資料室の窓の外で、雪が音もなく降り始めていた。細かな粉雪が、ガラスの向こうで斜めに流れていく。朔はしばらくその動きを目で追ってから、台帳を閉じた。

 廊下に出ると、役場の窓口の男が横目で朔を見た。朔は軽く会釈をして外へ出た。

 冷気が頬を刺した。

 歩きながら、朔は考え続けた。透は、結を人形から守ろうとした誰かのことを知っていたはずだ。いや、もしかすると、守ったのは透自身だったのかもしれない。「血縁による保護」という文言が、頭の中でくり返された。

 だが結は死んだ。二十五歳で、病によって。

 透にとって、それはどんな意味を持つのだろう。人形から妻を守り、妻を手に入れ、そして妻を失った。守ったはずのものを、失った。ならば――呪いを継続させることが村を守ると、透が信じているとしたら、それは単純な信仰ではなく、もっと暗い、個人的な何かを抱えた信仰なのかもしれない。

 朔は足を止めた。

 雪道の真ん中で、一人立ち尽くす。

 透は、誰かを守ろうとして失った。だから今度こそは、呪いを正しく続けることで村を守れると、自分に言い聞かせているのではないか。朔の介入を拒むのは、かつての自分の失敗を繰り返させたくないからではなく――かつて誰かが割り込んで呪いを「解除」させようとしたことへの、根深い不信があるからではないか。

 そう考えると、透の行動がはじめて一本の線でつながった。

 線がつながった瞬間に、朔は不思議な痛みを感じた。憎いと思っていた相手の中に、憎み切れないものが見えた。それは共感と呼ぶにはあまりにも苦い、もっと粘度のある感情だった。

 学校へ戻ると、昼過ぎの職員室は閑散としていた。紬は今日も三時間目で早退したと同僚から聞いた。熱があるわけではないが、「ぼんやりしている」と養護教諭が言った。

 朔は自分の席に座り、手帳を開いた。

 「返す、と誓う者の、血を」

 あの文字は消えていなかった。何度見ても、そこにある。朔の字ではない。しかし、朔の手帳に、朔の知らないうちに記されている。

 ――透も、かつてこんな文字を見たのだろうか。

 唐突に、そんな思いが湧いた。

 根拠はない。しかし、「血縁による保護」という記録の意味を考えるたびに、透がこの呪いの構造をどこかで知りながら、それでも止めることを選ばなかった理由が、朔には少しずつ輪郭を結んでくる気がした。

 守ろうとして、失った。

 だから今度は、流れに逆らわない。

 それが透の選んだ方法なのだとしたら、朔はその選択を否定しながら、どこかで深く理解してしまっている自分に気づいた。

 職員室の窓の外、グラウンドに積もった雪の上を、カラスが一羽、足跡を刻みながら歩いていた。

 今夜、社へ行く。

 朔は手帳を閉じた。透のことを考えながら、しかし迷いは昨日より薄い。透がどんな痛みを抱えていようとも、紬を差し出すことで村の安寧を買おうとする論理には、朔は同意できない。同情と賛同は、別のものだ。

 ただ、社へ向かう前に、もう一度だけ志津を訪ねようと思った。

 「血縁による保護」の意味を、老婆ならば知っているかもしれない。

 そして、昭和六十一年に宮城結を人形から解除した者が誰であったかを、志津はおそらく黙ったまま、その皺だらけの目で朔をまっすぐ見るだろう。

 その目の中に、答えがあるような気がした。

花嫁人形と、溶けない雪の村

19

透の過去

氷室 宵子

2026-05-31

前の話
第19話 透の過去 - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版