黄仁が去った後の継ぎ接ぎ市場は、潮が引いた砂浜のように静まり返っていた。
朱雀澪は帳をくぐり、迷路のような路地を歩いていた。もう今夜の用は済んでいた。夫の記憶を三つ、〈無名〉の棚から買い戻した。左手の薬指に巻いた薄布の下には、その三つがちゃんと息づいている。澪はそれを確かめるように、右の指先でそっと左手首を押さえた。
しかし足は自然と遅くなる。
百年に一度の市場だ。次に来られるのは百年後、自分が生きていればの話だが——生きているはずがない。だから今夜が最後だと分かっている。それでも澪は歩みを止めた。まるで出口のほうへ向かうことが、夫の墓前から背を向けることのように感じられて。
提灯の明かりが揺れる。異国の言語で書かれた看板が風に鳴る。どこかの露店では誰かが笑い、どこかでは泣いている。この市場はそういう場所だ。悲しみと喜びが等価に並んでいる、継ぎ接ぎの夜の市。
角を曲がったとき、澪は立ち止まった。
路地の突き当たりに、少女がいた。
年の頃は十二か三か。藍よりも深く、しかし墨よりも透き通った色をした着物をまとい、長い黒髪が夜風に靡いている。提灯の光を受けているはずなのに、その輪郭はどこかはっきりしなかった。影が少女の形をしているのか、少女が影の質感を持っているのか、澪にはうまく見分けられない。
少女は澪を見ていた。
視線が合った瞬間、澪の胸の内で何かが揺れた。懐かしい、という感覚ではない。ただ、何か——満ちてくるような、静かな感触だった。
「あなたは……」
澪が声をかけると、少女は答えなかった。ただ微かに頬の筋肉が動いて、笑みのようなものが浮かんだ。それは人間の表情というよりも、月が雲間から出るときの光の変化に似ていた。
少女がゆっくりと近づいてくる。
澪は逃げなかった。逃げるべきかもしれないと、頭の端では思った。この市場に現れるものが全て安全とは限らないし、自分はもう今夜の取引を終えている。余計な関わりは避けるべきだ。そう分かっていながら、澪の足は動かなかった。
少女が手を伸ばした。
その小さな手が澪の右手に触れた瞬間、澪は息を呑んだ。冷たくも温かくもない。ただ、存在している、という重さだけがそこにあった。指の形は人間のものだが、掌の感触は水面を撫でるようで、それでいてどこか確かな実在感を帯びていた。
少女の目が澪を見上げた。縹色だった。空と海の間にだけ存在するような、あの曖昧な青。
(縹、と澪は心の中でその色を呼んだ。それ以外の言葉が思い浮かばなかった。)
少女は何も言わなかった。微笑んだまま、澪の手をそっと握って、そして離した。
それだけだった。
次の瞬間には少女は路地の奥に消えていて、澪は一人で立っていた。提灯が揺れている。市場の喧騒が遠くから届いてくる。何も変わっていない。
ただ、右手の掌だけが、じんわりと温かかった。
帰路の記憶が、澪にはほとんどない。
出口の白い暖簾をくぐり、路地の石畳を歩き、潮の匂いの中を歩いて、自分の家の閾をまたいだ。それだけは分かる。布団の上に横になったとき、体は海の底に沈んでいくように重かった。今夜一晩で、百年分のことをしたような気がした。
目を閉じると、すぐに眠りが来た。
そして夢を見た。
夢の中は昼間の光に満ちていた。
縁側に腰掛けて、澪は庭を見ている。梅の木が一本。白い花をつけている。冬の終わりの、晴れた午後の光だ。
隣に誰かが座った。
澪は振り向いた。
夫がいた。
当たり前のように、そこにいた。
澪の喉が塞がった。夫の顔を、澪はずっと忘れかけていた。正確には——忘れさせていた。記憶を売るたびに、その顔の細部が少しずつ欠けていった。目元の皺の具合、笑うときに傾ぐ頭の角度、少し低いが聞き取りやすい声の質感。そういうものが全部、薄紙を一枚ずつ剥がすように消えていった。
だが今この夢の中では、全部ある。
皺の一本一本まで、ちゃんとある。
「澪」
夫が呼んだ。その声が。その声の低さが。少し鼻にかかる癖が。全部あった。澪は返事もできずに、ただ夫の顔を見た。
「寒くないか」
「……寒くない」
「そうか」
夫は縁側から庭を眺めた。梅の白い花びらが一枚、ゆっくりと舞い落ちた。
「記憶を売ったんだってな」
澪は頷いた。夢の中なのに、恥ずかしかった。
「全部、取り戻したか」
「まだ、全部じゃない」
夫は少し黙った。それから穏やかに言った。
「取り戻さなくてもいいよ」
澪は顔を上げた。夫は梅の花を見たまま続けた。
「俺がいなくなってから、ずっと俺のことを抱えていたんだろう。それがお前を疲れさせているなら、手放せばいい」
「そんなこと——」
「俺はお前の重荷になりたくない」
澪の目が熱くなった。夢の中でも涙が出るのだと、澪は知った。
「重荷じゃない」と澪は言った。「あなたのことを覚えていたい。それだけのことだから」
夫は今度は澪を向いた。その目が細くなった。皺が寄った。澪が大好きだった、あの表情が。
「ありがとう」
それだけ言って、夫は梅の花を眺めた。澪も一緒に眺めた。
花びらが一枚また舞った。光の中に溶けていくように消えた。
縁側はあたたかく、夫の肩が隣にあって、澪はそのまま長い時間そこにいた。
夜明け前の光の中で、澪は目を覚ました。
頬に涙の跡があった。指でそれを拭いながら、澪はしばらく天井を見上げていた。心の中が、空にした壺に水が満ちていくような感覚だった。悲しみではない。もっと静かな、もっと澄んだ何かだ。
夫の顔が、まだ瞼の裏にある。
売った記憶のどこかに、今見た夢は入っていない。だから買い戻した三つの記憶とも違う。あの梅の庭も、あの声も、どこから来たのだろうと澪は思った。
右手の掌を見た。
昨夜、あの少女に触れられたところ。
何も残っていない。跡も、痕跡も。ただ澪の手があるだけだ。それなのに、あの冷たくも温かくもない感触がまだそこに宿っているような気がした。まるで何かがそっと、澪の手から夢の入口に滑り込んでいったように。
澪はゆっくりと起き上がった。
窓の外、港の方角がうっすらと白み始めている。潮の匂いが夜風に乗って届く。継ぎ接ぎ市場はもう消えているだろう。百年の眠りについた市場は、次の満月の大潮まで戻らない。
あの少女は誰だったのか。
市場の者にしては、何も売らず何も買わなかった。ただそこにいて、手を触れて、消えた。客にしては何も求めなかった。商人にしては何も差し出さなかった。
縹色の目が、澪の記憶の中で揺れる。
あの色を、澪はどこかで見たことがある気がした。いや——夢の中で見たのだろうか。梅の花びらが光に溶けていく、あの瞬間に。
いや違う、もっと前だ。
夫と出会った頃、まだ若かった頃、澪が初めて夫の目を見たとき——あの目の奥に宿っていた色に、似ていた。
澪はその考えを途中で止めた。
馬鹿げている、と思った。少女と夫とを結びつけようとするのは、記憶を失いかけた者の歪んだ執着に過ぎない。
それでも右手の掌の温度は、まだそこにあった。
澪は立ち上がり、台所へ向かった。湯を沸かして、茶を飲む。それだけの、ありふれた朝のことをしようと思った。
しかし歩きながら澪はふと振り返った。誰もいない部屋の、誰もいない布団に向かって。
まるで誰かがそこにいたような気がして。