継ぎ接ぎ市場の夜は、いつも少しだけ余分に長い。

 現世の時間が一時間すぎる間に、市場では三時間が流れる、という話を千斗は記憶屋の老女から聞いた。真偽の程はわからないが、確かに路地の狭間に踏み込んでから一度も空が明るくなる気配がない。満月は中天に固定されたまま、青白い光を惜しみなく注ぎ続けている。

 その月光の下を、一人の男が歩いていた。

 歳の頃は三十路をいくつか越えたあたりだろうか。仕立ての良い藍染の上着を纏い、丁寧に整えられた口髭をたくわえた、一見すると裕福な商人風の出立ちである。しかし歩き方が妙だった。自信ありげな大股の歩幅と、その目の奥に巣食う何か落ち着きのないものとが、いちいち食い違って見える。虚勢の作り方を心得た人間だ、と気づく者は少ないかもしれないが、気づいた者には痛ましく映るだろう。

 男は〈無名〉の店の前で立ち止まった。

 継ぎ接ぎ市場の中でも端の方に位置するその店は、青磁色の暖簾を軒先に垂らしているだけの、素っ気ないほど簡素な佇まいだ。表看板もなければ、売り物を並べた棚もない。ただ、古い木机と向き合う形で置かれた椅子がひとつ、そして机の向こう側に〈無名〉がいる。

「こんばんは」と男は言った。声は滑らかで、愛想がよかった。「黄仁と申します。少々、売りたいものがございまして」

 〈無名〉は顔を上げた。ゆるりと視線を男に向け、椅子を顎でしゃくる。

「お座りください」

 黄仁と名乗った男は、少しだけ体を固くしてから腰を下ろした。机の向こうの商人は、相変わらず何の感情も表情に浮かべていない。ただその目だけが、深い水底みたいな色をして黄仁を見ていた。

「売りたいもの、というのは」

「才能です」黄仁は即座に答えた。「嘘をつく才能、と言えばよいでしょうか。私は随分と長い間、それで飯を食ってきました。が、もうそろそろ手放したくなりまして」

 〈無名〉は少し間を置いた。

「才能の売却。珍しくはありませんが、簡単でもありません。査定には少々、お時間をいただきます」

「構いません」

 〈無名〉は机の引き出しから、細長い黒檀の棒を取り出した。それは一見すると尺取り棒のようだが、目盛りが刻まれておらず、先端に小さな水晶が嵌め込まれている。才能を量る道具、と察するのにさほど時間はかからなかった。

「少しだけ嘘をついてみてください。何でも構いません」

 黄仁は口元に笑みを浮かべた。慣れた、柔らかな笑みである。

「今夜の月は随分と赤い」

 それが嘘であることは、今し方二人の頭上に鎮座している月が、紛れもなく青白いことからも明らかだ。しかし黄仁の声には不思議な質感があった。嘘の形をしていながら、聞いた者の胸にするりと入り込んでくる。月を見ようとする気すら起こさせないような、そういう確信に似た響き。

 水晶が、ほのかに光った。

 〈無名〉は棒を机に置き、目を細める。

「なるほど」と彼は言った。「これは確かに、才能と呼べるものです。ただ」

「ただ?」

「値踏みには、出処を確認する必要があります」

 黄仁の笑みが、わずかに揺れた。

「出処、とは」

「才能には二種類あります。生まれ持ったものと、後から得たもの。後者の場合、その才能が元々誰かのものだったか、あるいは何かと引き換えに得たものであるかを確認しなければ、売却の手続きが正式に進められません」

 静けさが降りた。市場の賑わいが遠く聞こえる。香の煙が青白い月光の中を漂う。

「市場の規定、ですか」と黄仁はやや低い声で言った。

「そうです」

 また間があった。黄仁は口髭を一度だけ指で撫でてから、ゆっくりと息をついた。

「……引き換えに得た、が正しい」

 〈無名〉は何も言わずに続きを待った。

「二十年ほど前のことです」黄仁は言った。声から滑らかさが少し剥がれて、その下に別の質感が現れた。「私にはもともと、真実を語る才能がありました。嘘が全くつけないのではなく、話す言葉に不思議な誠実さが宿る、とでも言うのでしょうか。人に信用される、という類いのものです」

「それを手放した」

「ある夜、市場に来ました。若かった。当時の私には守るべき相手がいて、その相手を傷つけている人間を遠ざけるために、どうしても上手い嘘が必要だった」黄仁の声は平坦だったが、机の上の手が指先だけわずかに力んでいた。「真実を語る才能と、嘘をつく才能を交換した。その時の商人が何者だったか、今となっては定かではありませんが」

「交換相手の名前は?」

「名前はありませんでした」黄仁は少し考えてから言った。「名のない商人、と皆が呼んでいた」

 〈無名〉の目が、かすかに動いた。

「それで」と彼は静かに促す。

「うまくいきました。守りたかった相手は傷つかずに済んだ。私の嘘は見事に機能して、件の人間は遠ざかり、全て丸く収まった」黄仁は言い、それきり黙った。「……丸く収まった、はずでした」

「はずだった」

「その相手が、いなくなりました」黄仁の言葉は短かった。「病で。三年後に。私が嘘をつき続けながら守った相手が、三年後に死んだ。私はその時まで、真実を語る才能を手放したことを後悔していなかった。なぜなら嘘は機能していたから。でも」

 彼は目を伏せた。

「死の床で、その人は私に言ったんです。あなたの言葉はいつも、少し遠い気がする、と。本当のことを話してくれていたのかどうか、最後まで分からなかった、と」

 沈黙が、長く続いた。

 市場の彼方で誰かが笑う声がした。商品を褒める声、値交渉する声、銅鑼の音。それらが遠く、水の向こうから聞こえてくるようだった。

「私が真実を語る才能を持ったまま守ろうとしていれば」と黄仁は続けた。もはや声に滑らかさはなかった。ただ疲れた人間の声だった。「同じように守れたかどうかは分からない。それでも、その人の言葉は変わっていたかもしれない。遠い気がする、などとは言わずに済んだかもしれない」

「後悔している」

「二十年です」黄仁は顔を上げた。「二十年間、この才能で食ってきました。おかげで裕福にもなれた。でも今、もうこれが要らない。使うたびに思い出す。あの人の、遠い気がする、という言葉を」

 〈無名〉はしばらく黄仁を見つめていた。その目の深さは変わらない。深い水底が、何を見ているのか、黄仁には分からなかった。

「売却の手続きは可能です」と〈無名〉はやがて言った。「ただし、一点確認させてください。あなたは嘘の才能を手放した後、何かを得ようとしていますか。それとも、ただ手放したいだけですか」

 黄仁は意外そうな顔をした。

「手放したいだけです。得たいものなど、もう何もない」

「それが、この才能の正当な値段です」

〈無名〉は静かに告げた。黄仁には意味がよく解らなかったが、何かを問い返す気力も湧かなかった。

「では」と〈無名〉は言い、帳簿を開いた。「お名前を。黄仁様、で」

 ペンを走らせながら、〈無名〉は帳簿のとある頁に目を向けた。一瞬だけ。誰にも気づかれないほど短い間だったが、その頁には何も書かれていない白い空白があって、〈無名〉の目が一度だけそこに触れ、また黄仁の欄へと戻った。

 空白は、依然として空白のままだった。

 帳簿に名前を書き込まれながら、黄仁は不意に「あなたにもかつて守りたかったものがあったのでしょうか」と言いたくなった。なぜそう思ったのか自分でも分からなかった。ただ机の向こうの商人の目が、自分の話を聞いているうちにほんのわずか、何か遠い場所を見ているように変わった気がしたのだ。

 しかしその言葉は口から出ることなく、黄仁の胸の中に沈んでいった。

 取引が終わり、男は立ち上がった。嘘の才能を売り終えた体は、驚くほど軽かった。あるいはただ疲れていたのかもしれない。

「ありがとうございました」と彼は言った。声の滑らかさは既になかったが、それでも礼は丁寧だった。

「ええ」と〈無名〉は答えた。

 黄仁が暖簾をくぐって出ていく。その背中が人混みに消えるのを、〈無名〉はじっと見ていた。

 足音が遠ざかり切った頃、気配があった。

 振り返るまでもなく分かる。縹だ。

「聞いていたか」と〈無名〉は言った。

 返事はない。縹は返事をしたためしがない。ただ、〈無名〉の傍らに寄り添う影が、少しだけ揺れた。蝋燭の炎でも傍にあるように。

 〈無名〉は再び帳簿を開き、空白の頁に目を落とした。何も書かれていない。百年前から何も書かれていない。買われることなく、ただそこにある。

 指先が頁の縁に触れ、そしてまた離れた。

 夜は、まだ長かった。

真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人

8

嘘と真実の値段

藍田 夜子

2026-05-21

前の話
第8話 嘘と真実の値段 - 真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人 | 福神漬出版