市場には、看板がない。
正確にいえば、看板らしき物はある。板切れに文字を刻んだもの、布に墨を染み込ませたもの、あるいは獣骨を組み合わせただけの奇妙な標識。だが澪がどの通路を抜けても、どの軒先に目を止めても、読めるものが一つもなかった。文字の形をしているのに、視線を向けた瞬間にするりと意味が逃げてしまう。まるで夢の中で手紙を読もうとしているときのように。
澪は足を止め、自分の手のひらを見た。
右の掌には、薄紙に包まれた何かが乗っている。市場の入口で千斗と別れる前に受け取ったもので、「これを持っていれば迷子にはならない」と彼が手話で伝えてくれた。薄紙の中身は触れるとほんのりと温かく、心臓のような、あるいは懐中時計のような、規則的な拍動を繰り返している。
亡夫の形見の帯留めを手の中で転がしながら、澪は歩き続けた。
継ぎ接ぎ市場は、その名の通りに継ぎ接ぎだった。石畳の路地が唐突に板張りに変わり、板張りがまた砂利道に変わる。屋根はある場所では瓦葺きで、隣では蒲の葉を束ねただけの粗末なものになった。それでも不思議と不潔な印象はなく、むしろどこか懐かしい気配が漂っていた。どこかで嗅いだことのある線香の煙、記憶にある台所の温もり、死んだ夫が好んで着ていた藍染めの着物の色。
――あなたのことを、わたしはどこまで覚えているのだろう。
この市場に通い始めたのは、前回の満月からではない。三十年前、澪が市場の存在を知ったのはある老いた漁師の口伝からだった。百年に一度の大潮の夜、港の路地に市が立つ。そこでは何でも売り買いできる、魂の欠片すら値をつけられる、と。
笑い話だと思っていた頃に、夫が死んだ。
海難ではない。病だった。三年かけてゆっくりと、確実に。夫は最後まで澪の名を呼んだが、澪は夫の声が少しずつ変わっていく様子を見ていた。あの低くて温かい声が、やがて枯れ葉のようになっていくのを。
葬儀の翌朝、澪は気づいた。夫の顔が思い出せない、と。
いや、思い出せるにはせるのだ。だが何かがずれている。まるで誰かが絵の具を混ぜすぎたように、夫の顔の輪郭が滲んでいる。一年後には声の記憶が薄れ、五年後には夫が好きだった料理の名前が思い出せなくなった。それが老化というものだと言い聞かせようとしたが、澪には確信があった。これは老いではない。記憶が、どこかへ売られていくのだ。
あの夜、澪は夢の中で市場を歩いた。自分では気づかないうちに、眠りの中で取引をしていたらしかった。
「何を対価に?」と澪は問いかけたかったが、問いかける相手がいなかった。だから今夜、百年ぶりの大潮の夜に、澪は一人で路地に立ったのだ。
取り戻したい。
ただ、それだけのために。
路地が一本、左へ折れた。
角を曲がると、他の店とは少し様子が違う一角があった。店というより、古びた壁に一枚の布が垂れているだけだ。布は藍色で、月明かりを吸って仄かに光っている。その前に、誰かが立っていた。
男だった。年の頃がわからない。三十にも見え、五十にも見える。着物は地味で、帯の結び目がどこか不格好だった。だが立ち姿には不思議な静けさがあり、澪が近づいても振り向かなかった。
「もし」と澪は声をかけた。「こちらは、商いをされているのですか」
男がゆっくりと振り返った。
顔立ちは整っているのに印象が薄い。記憶に残らないような、そういう顔だと澪は思った。だが目だけが違った。深い、暗い、何か重いものを沈めた水の底のような目。その目が澪を見たとき、一瞬だけ何かが揺れた気がした。
「商いは、しております」と男は答えた。声は穏やかで、抑揚が少ない。「何をお探しですか」
「あなたのお名前を、まず伺ってもよいですか」
男は少し間を置いた。それから、ごく自然に答えた。
「無名です」
「……は?」
「無名。名前がない、という意味で使っております。正式な屋号のようなものです」
澪は目を瞬かせた。冗談とも本気ともつかない返答だったが、男の表情には揺らぎがない。笑っているわけでも、困っているわけでも、誤魔化しているわけでもない。ただ事実として述べている顔だった。
「そう、ですか」と澪はとりあえず言った。「では、無名さん」
「無名、で結構です。さん、は余分です」
「……無名」
呼び捨てにすることへの抵抗を、澪は少し感じたが、男の顔を見ると余計なことを言う気が失せた。
「記憶を、取り戻したいのです」と澪は言った。「亡くなった夫の記憶を。いつの間にか、少しずつ失っていまして」
無名は何も言わなかった。ただ聞いている。
「この市場で取引ができると、聞きました。記憶の売り買いが、できると。わたしは知らないうちに夫の記憶を売っていたようで、それを買い戻したいのです。可能ですか」
しばらく沈黙があった。
澪は無名の顔を見ていた。何も読み取れない。感情という感情が表面に出てこない顔だった。だが、あの目だけが、ほんの少し、陰った気がした。水面に薄雲が差すような、一瞬の翳り。
「記憶の売買は、できます」と無名は言った。
澪の胸に、薄い光が差し込んだ。
「ただ」と無名は続けた。「記憶の返却は、別の話です」
光が、ふっと消えた。
「……どういう意味ですか」
「売られた記憶は、市場の中で流通します。次の買い手に渡り、あるいは別の形に変容する。記憶は物と違って、同じものが二度と同じ場所には戻りません。あなたが探しているのは、元の状態の記憶でしょう。それは」
無名はそこで一度言葉を切った。
「難しい」
澪は唇を結んだ。難しい、という言葉は、不可能とは違う。だが希望と呼ぶには頼りなさすぎた。
「難しい、というのは」
「不可能ではない、という意味です。ただ、記憶は時間をかけて変質する。取り戻せたとしても、それがあなたの知っていた夫の記憶と完全に一致するかどうかは、保証できない」
「変質する、というのは」
「たとえば」と無名は言った。「悲しみを買った人間が、その悲しみを喜びと混ぜて使った場合。元の悲しみは、もう純粋な悲しみではない。記憶も同じです。誰かの中を通ると、色が変わる」
澪は黙って無名の言葉を聞いた。頭の中で、夫の顔が浮かびかけて、また滲んだ。滲んだまま、消えていこうとする。
「それでも」と澪は言った。「わたしは探したいのです」
無名が澪を見た。
あの目で。深い、暗い目で。そこに何が沈んでいるのか、澪には見えなかった。ただ確かに、何かがある。百年分の何かが。
「今夜一晩、市場を歩いてみなさい」と無名は言った。「記憶の欠片は、人が持ち歩くことがある。売った本人が気づかないまま、体に貼り付いたまま歩いている者もいる」
「どうやって見分けるのですか」
「見分けられます。あなたには、わかるはずです」
澪は無名の顔を見た。「どうして、わかると?」
「あなたが三十年間、その記憶を探し続けているからです」と無名は言った。「探し続けた人間は、自分が探しているものの匂いを、必ず覚えている」
澪は薄紙に包まれた温かい何かを、手の中で強く握った。
わかるはずだ、という言葉が、根拠のない希望を与えた。根拠がないから危うく、しかし澪はそれを手放せなかった。諦めるには、三十年は長すぎた。諦めることを覚えられないまま、ここまで来てしまったのだ。
「一つ、教えてください」と澪は言った。
「なんでしょう」
「あなたは、何かを失ったことがありますか」
無名は答えなかった。
ただ、あの目が、また陰った。今度は先ほどよりも長く、深く。そして一瞬だけ、澪には見えた気がした。その暗い目の奥に、小さな光が揺れているのを。消えかけた灯火のような、水底の蛍のような。
「市場は夜明けまでです」と無名は言った。話を変えるように、しかし声は穏やかなままで。「時間を無駄にしないほうがいい」
澪は一礼して、歩き出した。
角を曲がる前に振り返ると、無名はもう澪の方を見ていなかった。藍色の布を背に、ただ立っている。そしてその隣に、いつの間にか、誰かがいた。
小さな影だった。少女のような、あるいは煙のような。澪が目を細めると、その影が無名の袖の端を、ほんの少しだけ、掴んでいるように見えた。
無名は気づいているのか、いないのか、微動だにしない。
澪はもう一度前を向き、市場の奥へと歩き出した。夫の匂いを探して。三十年間、手放せなかった執着を胸に抱いて。