月が割れた、と思った。
澪が路地の角を曲がった瞬間、空の真ん中に浮かぶ満月が揺らいだのだ。水面に映った月が波に壊されるように、夜そのものが一度ぐにゃりと歪んで、それから静かに元の形を取り戻した。けれども元の形ではなかった。月は元の月のまま空に鎮座していたが、路地の先の空気が、たしかに変わっていた。
海の匂いがした。潮だけではない。何か甘く、腐りかけた果実のような、あるいは古い紙の束を束ねたような、複雑な匂い。澪は思わず立ち止まり、手に持った風呂敷包みをきつく抱き直した。中には夫の形見の煙草入れが一つと、今夜のために用意した小さな引き出物——自分の「笑い声」を硝子瓶に詰めたもの——が入っている。市場では何かを持ってこなければ入れないと、噂で聞いていた。
路地が、裂けていた。
正確に言えば、二つの蔵の壁の間に、在るはずのない空間が口を開けていた。昨日まで確かにそこには煉瓦の壁があったはずだ。澪は三十年この港町に暮らしているから、知っている。けれども今夜、その煉瓦は夢の中の水のように溶けてなくなり、薄明かりに満ちた奥行きが生まれていた。
一歩、踏み出す。
足の裏が、知らない石畳を踏んだ。
*
千斗は屋根の上から見ていた。
港町の一番古い蔵の屋根に這いつくばり、眼下の路地を眺めながら、手元の航海日誌のページを指でなぞっていた。三ヶ月前に古道具屋の奥から掘り出した、日焼けた革表紙の日誌。書いた人物の名前は最初のページが切り取られており、読めなかった。しかし記録は驚くほど精緻だった。
――大潮の満月夜、路地の狭間に市が立つ。壁が裂け、光が滲み、見えざるものを売る商人が店を開く。持ち込むのは形のないもの。連れて帰るのも形のないもの。されどそれは確かに在りし、確かに失われる。
そのページを千斗は何十回も読み返してきた。声を失ってから、文字だけが世界との橋渡しになった千斗にとって、この日誌の記録は暗号でもあり、地図でもあった。
今夜、眼下で路地が裂けた。
千斗は息を呑んだ。声が出せないから、息を呑む音も出ない。ただ喉の奥で空気が止まり、目が見開かれた。日誌に書かれた通りだ。二つの蔵の間に、あり得ない奥行きが生まれている。黄みがかった光が、路地の先からこちらを呼んでいる。
屋根から降りると、千斗は路地に飛び込んだ。
*
中に入った者は皆、しばらく声を失う。
澪がそれを理解したのは、自分の口から言葉が出てこないことに気づいた時だった。悲鳴を上げようとした。驚嘆の声を上げようとした。けれども唇が動いても、音が生まれない。それは恐ろしいことのはずだった。しかし澪は恐ろしいとは思わなかった。市場があまりにも美しかったから。
天井はなかった。いや、天井があるのかもしれないが、それは夜空と同じ色をしており、満月だけがそこに貼り付いて、市場全体を青白く照らしていた。地面は石畳で、その石畳の間から細い草が生え、青い燐光を放っている。
屋台が、数えきれないほど並んでいた。
木の枠に布を張ったもの、竹を組んで硝子を嵌めたもの、あるいは大きな貝殻を並べてその上に商品を乗せたもの。形も大きさも、まったくばらばら。まるで誰かが様々な時代と場所の市場を切り取り、貼り合わせて一つにしたようだった。継ぎ接ぎ——その名前の意味を、澪は今はじめて腑に落ちた。
商品は不思議なものばかりだった。
硝子の小瓶に詰められた、色とりどりの霞。老婆の声で「これは誰かの初恋の臆病さだよ」と説明される瓶。子供の指ほどの小さな鏡に、見た者の幼い頃の夢が映るという鏡。折り畳まれた紙の束——開くと誰かの一生分の後悔が文字になって流れ出すというので、売り手の商人は絶対に広げるなと声を低めた。
澪はゆっくりと歩いた。足音が石畳に響く。周囲の客たちは皆、夢の中を漂うような表情で屋台を眺めている。互いに視線を交わすこともなく、それぞれが自分の内側に向かって歩いているようだった。
ふと、隣に人の気配を感じた。
振り向くと、若い少年が澪と並んで歩いていた。十七、八歳くらいの、細い体の少年。少年は澪と目が合うと、小さく頭を下げた。口元が動いたが、声は出なかった。ここでは皆、最初は声を失うのだと、澪はなんとなく悟った。少年は手元の小さな帳面に何かを書きつけ、澪に差し出した。
――はじめてですか。
澪は頷いた。少年も頷いた。二人はそれきり言葉を交わさなかったが、なんとなく並んで市場の中を歩き続けた。
*
市場の最奥に、一つだけ異なる屋台があった。
他の屋台が雑然と並ぶ中、その場所だけが不思議と静かだった。屋台というより、机が一つ置かれているだけだ。黒い木の机の上に、古びた帳簿が一冊。それだけ。
机の奥に、男が立っていた。
年齢の読めない男だった。着古した紺の着物、無造作に束ねた髪、色の薄い瞳。顔立ちは整っているが、どこか虚ろで、まるで人形が人間の形を借りたような印象を与える。ただし目だけが違った。目だけが、深い場所から何かを見つめていた。長い時間をかけて海に沈んだものを、水底から見上げるような目。
それが〈無名〉だった。
澪が男の屋台の前で立ち止まると、男はゆっくりと頭を上げた。
「いらっしゃい」
男の声は、低く、静かで、波音に似ていた。
「百年ぶりの市です。ゆっくりご覧になっていい」
澪は言葉が戻っていることに気づいた。男の前に立つと、声が出るのだ。
「あなたが……商人さん」
「商人の一人です」男は淡々と言った。「名前はありません。あると不便なもので」
澪は帳簿を見た。分厚く、古く、表紙に文字はない。男の視線がそこに落ちた瞬間、かすかに何かが揺れた気がした。表情が、ではない。もっと奥の何かが。
その時、澪の足元を青い影がよぎった。
少女だった。いや、少女の形をした何かだ。市場の燐光と同じ、青みがかった縹色の輪郭。実体があるのかないのかわからない。ふわりと漂って、男の傍らに寄り添い、そこで止まった。
男はその影を見なかった。
見ないのではなく、見ることに慣れ切っているのだと、澪は思った。長い時間をかけて、そうなったのだと。
「さて」と男は言った。「何を売りに来ましたか。何を買いたいですか」
澪は風呂敷包みを抱きしめた。夫の記憶。残りわずかな、夫との時間。それを取り戻すために来た。しかし今この瞬間、澪の胸の中で何かが揺らいでいた。取り戻すことと、手放すことの間で、言葉が形を失っていた。
市場の方々から、低い喧噪が満ちてくる。
百年ぶりの夜が、ようやく始まったのだ。
少女の影が、青い光の中でほんの少しだけ揺れた。まるで、誰かの名前を呼ぼうとしているかのように。