港町の夜は潮と煙草の匂いで満ちている。
波止場から三本の路地を入ったところに、看板も屋号も持たない酒場がある。灯りはいつも薄く、柱には年代物の漁網が飾られたまま埃を被り、厨房からは何を煮ているのかわからない濁った香りが絶えず流れ出てくる。それでも夜ごと人が集まるのは、この店の主人が客の顔を覚えない――正確には、覚えていても知らぬふりをする――という一点においてのみ信頼できる人間だからだ。
黄仁(こうじん)はいつもの席に座っていた。
奥の壁際、梁の陰になって表からは見えにくい場所。杯を両手で包むように持ち、濁り酒をゆっくりと口に運ぶ。七十を超えているはずの手は、しかし妙になめらかで、老いというものをどこかに忘れてきたような不思議な質感をしていた。顔の皺は深く、白髪は乱れ、着物は洗い古されて色が抜けている。それなのに目だけが、黒く、澄んでいた。まるで別の人間から借り受けてきたような目だった。
「今夜も独りかね、じいさん」
主人が通りすがりに言った。黄仁は答えなかった。答える代わりに杯を少し持ち上げて見せた。それで足りた。この店では言葉は足しにも引きにもなる。
黄仁は嘘をつく。
これはよく知られたことではなく、ごく一部の者だけが知っていることだ。彼が嘘をつくとき、そこには特別な質感がある。滑らかすぎず、かといって荒くもなく、聞いた者の耳に自然に馴染む。疑う隙間を与えない。彼の嘘はまるで長年使い込まれた道具のようで、持ち主の手の形に沿って磨耗している。
若い頃、彼は交渉人として名を馳せた。商人と商人の間に立ち、どちらの肩も持たず、しかしどちらにも都合のいい言葉を与えた。両者が去ったあと、得をしていたのは黄仁だけだった。それを誰も咎めなかった。咎める前に、すでに彼の言葉に絡め取られていたから。
才能、と呼ぶには少し物騒な代物だ。
杯を干し、黄仁は目を閉じる。
七日後に市場が開く。
その予感は、三日前から皮膚の裏側でざわついていた。百年前のことを彼は知らない。しかし体は覚えているらしかった。前の市場を知る者はもうほとんどいない。黄仁だって本来は知るはずのない年齢だ。それでも体の奥の、肋骨よりさらに深いところで、何かが震えている。
あの夜に売ったものが、戻ってくるかもしれない。
そう思ったのは、夢の中だった。夢の中で自分はまだ若く、どこかの薄暗い路地に立っており、向かいに見知らぬ商人が座っていた。商人の顔は覚えていない。ただその目が、異様に静かだった。嘘も真もない、ただ在るだけの目。
夢から覚めるたびに黄仁は確かめる。自分の中に、今もまだあるものを。
嘘の才能は健在だった。しかし真実を語る力は、あの夜以来ずっと、黄仁の体から消えたままだった。
「お隣、よろしいかね」
声がした。
黄仁は目を開けた。視線を上げると、そこに老婆が立っていた。白い着物に薄墨色の帯。髪を高く結い上げ、耳に銀の飾りをつけている。手には朱塗りの杖。顔の皺は深いが整然とした印象で、整えられた者の気配がした。この酒場に似つかわしくない、と黄仁は思った。
黄仁は答えなかった。
老婆はかまわず腰を下ろした。
「白榊糸子と申します」と彼女は言った。「監査官、と呼ばれることもある」
「どこの監査官だね」
「おわかりでしょう」
黄仁は杯を置いた。
わかった。わかってしまった。それが嫌だった。
「継ぎ接ぎ市場の」と糸子は続けた。「七日後に開きます。ご存知でしょう、黄仁さん」
「わたしは何も知らん」
「まあ」と老婆は微笑んだ。「嘘がお上手ですこと」
沈黙が落ちた。酒場の喧騒が遠くなった気がした。正確には遠くなったのではなく、黄仁と糸子の間にある空気だけが密度を変えたのだ。
「七十三年前」と糸子は言った。「黄仁さんは市場で取引をなさった。真実を語る才能と、嘘をつく才能を交換した。記録にございます」
「記録があるなら、わしに訊くことはなかろう」
「記録は記録です。当事者の言葉ではない」
黄仁は黙った。老婆の言葉の中に、何か引っかかるものがあった。釣り針のように小さく、しかし確実にそこにある。
「その取引は」と糸子は続けた。「正規のものではございませんでした」
「どういう意味だ」
「市場の商人が独断で行った取引です。才能の交換は、本来であれば監査官の立ち会いが必要です。当時も規則はあった。それが守られなかった」
黄仁は老婆を見た。
老婆は笑っていた。笑顔の形をしていた。しかしその目は笑っていなかった。整然と、静かに、黄仁を計測していた。
「取引の無効化が可能かもしれません」と糸子は言った。「あなたの真実を語る才能は、まだ市場のどこかに保管されているはずです。返還の手続きが踏める可能性がある」
「可能性が、ある」
「七日後、市場に来れば」
黄仁はしばらく何も言わなかった。杯を持ち上げ、しかし飲まずに置いた。
「なぜわしに話す」と彼は言った。「監査官とやらが市場の規則を守らせたいなら、その商人とやらに言えばいい」
「商人は」と糸子は言った。「話を聞きません」
「そうか」
「あなたが市場に来て、取引の無効化を申し立ててくだされば、それが正式な手続きになります。被害を受けた取引相手からの申し立てが、最も効力を持つ」
黄仁は酒を飲んだ。
今度は飲んだ。
喉を落ちていく濁り酒の味は、今夜に限って少し違った気がした。苦い。いつもより苦い。それとも、いつもこんな味だったのに、気づかずにいただけか。
「七十三年だ」と黄仁は言った。「わしは七十三年、嘘をついて生きてきた。真実を語れなくて、困ったことはほとんどなかった」
「そうでしょうか」
「そうだ」
これは嘘だ、と黄仁は思った。
しかし誰も咎めない。糸子も笑っている。黄仁の嘘は完璧で、体の奥から染み出てくるから、言った瞬間にはすでに本当のことのような顔をしている。
真実を語れなくて、困ったことはほとんどなかった。
嘘だ。
一度だけ、一度だけ、真実を言わなければならない夜があった。妻が死ぬ夜に、妻が訊いた。わたしはあなたに愛されていたか。黄仁は答えた。もちろんだ、と。それは嘘ではなかった。しかし真実でもなかった。真実を語る才能を持たない彼には、愛しているという言葉を、本当の重さで言うことができなかった。
妻は笑って、逝った。
その笑顔が正しかったのか、間違いだったのか、黄仁には今もわからない。
「お考えください」と糸子は立ち上がった。「七日後の満月の夜、大潮の時刻に路地の狭間へ。市場はあなたを歓迎します」
「市場が歓迎するのか、あんたが歓迎するのか」
「同じことです」
白榊糸子は杖をつき、酒場の奥へ向かって歩き出した。奥には壁しかないはずだった。しかし老婆の背中はやがて薄い闇に溶け、それきり見えなくなった。
黄仁は長い間、動かなかった。
杯の中の酒が揺れて、しずまった。
奇妙な動揺、と黄仁は自分の状態を名付けようとして、うまくできなかった。七十年以上かけて積み上げてきた諦観が、老婆の言葉一つで、ひびが入ったような感触がした。石が割れるのではなく、長年凍りついていたものが、表面だけ微かに緩むような。
真実を語る才能が、まだどこかにある。
取り戻せるかもしれない。
そして取り戻したとして、自分は何を語るのか。誰に向かって。
妻はもういない。
黄仁は空になった杯を見つめた。角が欠けた安物の器だ。長年使われて、継ぎ目が一か所だけ細い線のように走っている。割れたのを誰かが直したのか、それとも最初からそういう作りなのか、黄仁には判別できなかった。
七日後。
その言葉だけが、静かに胸の底に沈んでいった。
酒場の灯りが揺れた。潮風が、どこかの窓の隙間から、滑り込んできた。