朝の光が斜めに差し込む古書店の一角で、千斗は分厚い革表紙の本を両腕で抱えたまま、しばらく動けずにいた。
埃の匂いがする。羊皮紙の黄ばんだ端から、塩の気配がかすかに漂う。それは海の匂いだと、千斗は思った。あるいは、遠い時代の誰かの息吹が、紙の繊維の奥に染み込んで、今もまだ生きているのかもしれない。
古書店「花蝶堂」は、港町の細い路地を二度折れた先にある。看板はとうに色褪せ、店主の老人は客が来ても来なくても同じ顔をしている。千斗がここに通い始めたのは半年前のことだ。声が要らない店は、この世界でそう多くない。
棚の最下段、他の本が避けるようにして隙間に押し込まれていた一冊を引き抜いたのは、今朝のことだった。
表紙には題名がない。ただ、浅く刻まれた波の紋様と、読めない文字が三つ並んでいる。千斗はそれを指でなぞり、それから内側を開いた。
墨の色は濃く、筆跡は乱れていない。書いた者は、ひどく几帳面な人間だったのだろう。あるいは、揺れる船の上で書き続けることに慣れた人間だったか。
*潮の匂いのする夜、港の最も奥まった路地に光が灯る。百年に一度の大潮が満月と重なるとき、見えぬものを売る夜市が現れる。私はそこで、詩を三篇と引き換えに、残り二十年の時間を買った。*
千斗の指が止まった。
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*市の主は名前を持たない。正確には、名前を売り払った者だ。彼の目には深い色がある。海の底のような、あるいは夜の終わりのような。私が「あなたは何を手に入れたのか」と問うと、彼は少し笑って「義務を」と言った。義務とは何か、と重ねて問おうとしたとき、潮が引いて、私は路地の外に出ていた。*
次のページには、荒い波の絵が描かれていた。その下に短い詩が続く。
*売るべきものを売った者よ、名を持たぬ者よ、お前は何処から来て、何処へ行くのか。百年の海を渡り、また百年の海を渡り、いつかお前は岸を見つけるか。*
千斗はゆっくりと本を閉じた。指先が微かに震えていることに気づく。
彼は、ノートを開いた。胸ポケットにいつも入れてある、小さな方眼紙のノートだ。ペンを走らせる。
*これは本物だ。*
文字を書いてから、その意味を自分で確かめるようにもう一度読む。本物、という言葉の重さが、掌の中でずしりとした。
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千斗が声を失ったのは、十四歳の秋だった。
病の名前は長くて難しく、医者が説明するたびに母が泣いた。肺に水が溜まり、熱が七日続き、八日目の朝に千斗は喉が燃えるような感覚の中で目を覚ました。そして声が出なかった。
正確に言えば、声そのものは出た。ただ、その声を市場に置いてきてしまったのだ。
あれは夢だったのか現だったのか、今でも千斗には判然としない。熱に浮かされていた意識の縁で、白い霧に包まれた場所に立っていた。前後左右に商人たちの屋台が並び、何かを売り、何かを買う声が飛び交っている。しかしその声は、千斗の耳には届かなかった。ただ唇の動きだけがあって、音のない世界がそこにあった。
一人の商人が近づいてきた。顔は見えなかった。ただ、その目だけがはっきりと見えた。深い、深い色の目だった。
*何を望む。*
声ではなかった。文字でもなかった。ただ意味が、霧の中から直接届いた。
*生きたい。*
千斗は答えた。声でも文字でもなく、同じように意味を返した。
*代価は。*
*何でも。*
そのとき千斗は十四歳で、「何でも」という言葉の軽さを知らなかった。大人であれば、その言葉を口にする前に一瞬躊躇うものだということも、知らなかった。
商人は少し考えるようなそぶりを見せた。それから静かに言った。
*声を一つ、もらおう。*
声は、一つしかない。しかし千斗は頷いた。
九日目の朝、熱が引いた。医者は奇跡と言い、母は神仏に感謝した。千斗は、声が喉の奥で凍ったように動かないことを、一人だけで知っていた。
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それから三年が経った。
千斗は、声の代わりに手を使うことを覚えた。指が素早く動く。手話は半年で覚え、筆談は毎日続けた。話せない分、目が鋭くなった。耳が良くなった。あるいは元から良かったのかもしれないが、世界の音が以前より細かく聞こえるようになった。
そして、あの市場のことを調べ始めた。
最初はただの執着だった。自分が何かを奪われた、という感覚が消えなかった。しかし調べるうちに、それが執着から別の何かに変わっていった。
市場の記録は、驚くほど少なかった。表向きには存在しないからだ。しかし古い日誌の端に、旅人の手記の片隅に、漁師の口伝に、確かにその痕跡はあった。千斗はそれらを集め、ノートに書き写し、繋ぎ合わせていった。
見えないものを売り買いする夜市。百年に一度。
そして今朝、この航海日誌を手に入れた。
*詩人にして航海士*、と日誌の後半に記されていた。それが書き手の肩書きだった。名前は、どこにも書かれていない。
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千斗はカウンターに本を持っていった。店主の老人は眼鏡の奥から本を一瞥し、値段を紙に書いて差し出した。千斗は財布から銭を出し、老人に渡した。
老人が何か言う。千斗はその唇の動きを読んだ。
「どこで見つけた」
千斗はペンを走らせた。*棚の下段です。*
老人は少し眉を動かした。それから再び唇を動かす。
「あの棚には、何十年も触っていない。誰かが置いていったんだろう」
置いていった、という言葉が千斗の頭の中で反響した。誰かが、意図的に。あるいは無意識に。あの本が、あの場所で、今日の千斗を待っていたかのように。
外に出ると、海からの風が吹いていた。潮の匂いがする。
七日後、と千斗は思った。
満月の大潮は七日後だ。それは澪という女が老婆から聞いた日から、ちょうど同じ日数が経っていることを、千斗はまだ知らない。
ノートを開き、書く。
*市場は実在する。名前のない商人が実在する。そして百年前の航海士が書き残したことを、誰かに伝えなければならない。*
文字を書きながら、千斗は初めて、自分の調査に目的を感じた。ただ失ったものへの怒りでも、謎への知的な好奇心でもない、もっと切実な何かだ。
あの市場で、おそらく無数の人間が何かを失った。声も、記憶も、感情も、才能も。その交換が正当なものであったのか、あるいは不当なものであったのか。誰も問うてこなかったとしたら。
風が強くなった。千斗はノートを胸に抱えて、路地の奥に視線を向けた。
細い路地は薄暗く、その先が港に続いている。しかし今、千斗の目には、路地のどこかに別の何かが見えるような気がした。まだ現れていない光の予感のような、あるいは百年前の誰かの息が今も漂っているような。
七日後の夜、市場は開く。
千斗は歩き出した。海の方へ向かって、声のない足音を刻みながら。彼のノートには、航海士の日誌から書き写した一行が記されている。
*市の主の目を、どうか忘れるな。あの深い色の目の中に、まだ誰かがいる。*