千斗が最初にそれを疑ったのは、七つの夜のことだった。
市場に入って三日目、彼は雑貨商の老人から算盤を買った。正確には、算盤を弾く速さを一時間だけ借りた。取引の対価として差し出したのは、幼い頃に父から教わった舟の結び方。七種の結び目を指が覚えていた記憶を、老人の枯れた手のひらに移した。あの取引はごく平凡なものだったはずだった。
しかし帰り際、千斗はふと振り返った。
老人の手から、算盤の速さが消えていた。老人はそれを千斗に渡した。だが老人自身はその速さを、もともと誰かから買い取ったのだと言っていた。つまり、才能の「原本」は老人の手の中にあったわけではなかった。では、誰の手にあったのか。
その問いが千斗の頭の中で三日間、石のように沈んでいた。
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市場の路地は毎晩少しずつ姿を変える。継ぎ接ぎという名のとおり、曲がり角の先に昨晩なかった小路が生まれ、見覚えのある屋台が煙のように消える。千斗は小さな手帳に市場の地図を書き続けていたが、どのページも次の夜には半分が使えなくなった。それでも彼は書き続けた。書くことが、声を持たない彼の唯一の叫びだったから。
四日目の夜、千斗は「才能商」の区画に足を踏み入れた。
ここは市場の中でも特に人通りが少なく、燈籠の光が青みがかって見える一角だった。並ぶ屋台には、硝子の小瓶に封じられた何かが陳列されている。瓶の中には光というか、熱というか、言葉にならない密度のようなものが揺れていた。刺繍師の指先の記憶、数学者の直感、詩人が言葉を選ぶ一瞬の感覚。どれも確かに、誰かの一部だったものだ。
千斗は一軒の屋台の前で立ち止まった。老婆とも若者ともつかない店主が、半分眠ったような目で彼を見た。千斗は手帳を開き、ペンを走らせた。
『ここで売られた才能は、後で転売されるのですか』
店主はしばらく千斗の文字を見つめ、やがて肩をすくめた。「転売?転売はしないよ。ここで売れたものはここに残る」
千斗は眉を寄せた。『どこに?』
「市場に。市場そのものに」
店主は言い捨てるように答え、また瞼を落とした。それ以上は話す気がないようだった。
千斗は屋台を離れながら、その言葉を頭の中で何度も繰り返した。市場そのものに。
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翌日、千斗は市場の端に位置する「記録の間」を探し当てた。半日がかりで路地を辿り、ようやく見つけたそこは、壁一面に細かな文字が刻まれた狭い空間だった。蝋燭一本の光の下、千斗は壁に刻まれた取引の記録を読み始めた。
日付の概念が曖昧な、何十年、何百年分かの記録だった。売り手と買い手の名前と、取引の内容。しかし千斗が注目したのはそこではなく、各取引の末尾に小さく書かれた一行だった。
「収納済」
すべての取引記録の末尾に、その二文字があった。才能だけではない。記憶も、感情も、寿命の一部も。買い手の名前が記されているものも、記されていないものもあった。しかし「収納済」の文字だけは、一つの例外もなく全ての記録に刻まれていた。
千斗は手帳に書き写しながら、額に汗が浮かぶのを感じた。
買い手がいない取引がいくつかあった。売り手だけが書かれ、買い手の欄が空白になっている記録。それでも末尾には「収納済」とある。つまり、買い手がいなくとも——誰も受け取らなくとも——売られたものはどこかへ「収まった」ということになる。
どこへ。
千斗は蝋燭の炎が揺れる方向を無意識に目で追った。火のそばに草が生えているわけでもないのに、炎はある一点に向かって繰り返し傾いた。それはちょうど、市場の中心——〈無名〉の屋台がある方角だった。
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仮説が像を結んだのは、その夜の帰り道だった。
継ぎ接ぎ市場は蓄積装置ではないか。
人が手放したもの——才能も、記憶も、感情の断片も——は、他の誰かに渡るのではなく、市場という「器」に蓄えられていく。転売されているように見える品々も、実際には市場の蓄積から一時的に切り出されたものに過ぎない。買い手の手に渡った後も、その品は最終的には市場に戻る。市場は与え、奪い、しかし何も外には出さない。一つの巨大な湖のように、流れ込むだけで流れ出さない。
ならば、百年で何が蓄積されているというのか。
千斗は路地の石畳に腰を落とし、膝の上で手帳を広げた。ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。知的な興奮と、その興奮の裏から滲み出てくる得体のしれない恐怖が、同時に胸を満たしていた。
市場が蓄積装置なら、その目的は何か。百年ごとに開かれ、百年分の「見えないもの」を集め続ける市場は、いったい何に向かって肥大しているのか。そして、その中心に立ち続ける商人——〈無名〉——は、その蓄積の何を知っているのか。
千斗は目を閉じた。
声を売った夜のことを思い出した。あの時、自分の声はどこへ行ったのか。病を生き延びた対価として手放したあの声は、誰かの喉に宿ったわけではなかった。市場の、どこかに、今もある。
自分の声が、市場の中に眠っている。
その事実を、千斗はこれまで考えないようにしていた。考えれば、手放したことへの後悔が戻ってくると思っていた。しかし今は違った。今は、その声が何のために蓄えられているのかを知りたかった。怒りにも似た感情が、静かな決意として結晶した。
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夜が深くなるにつれ、市場の空気は変質した。潮の匂いが強くなり、石畳の隙間から薄青い靄が這い上がる。満月まで、あと二日。
千斗は立ち上がり、手帳を胸に押し当てた。
〈無名〉に会いに行かなければならない。
これまで千斗は意識的に距離を置いていた。市場の仕組みを理解する前に核心に触れることを恐れていたし、何より〈無名〉という存在には、近づくことを躊躇わせる何かがあった。あの深い悲しみをたたえた目。飄々とした物腰の奥に封じられた、百年分の重さ。それと向き合う覚悟が、自分にはまだないと思っていた。
しかし今は違う。仮説には答えが必要で、答えを持っている者は一人しかいない。
千斗は靄の中を歩き始めた。
市場の中心への道は、どこを曲がっても同じ場所に出るような不思議な感覚があった。まるで市場自体が彼を誘導しているかのように、路地が自然に開けていく。その感覚がまた、千斗の胸の底で恐怖を揺らした。市場が蓄積装置であるならば、その市場が自分を中心へ向かわせているとすれば、それは——
考えの先を、千斗は意識して断ち切った。
屋台の灯りが遠くに見え始めた。青白い燈籠の光の中に、一つだけ橙色の炎が揺れる場所。千斗はそこを見つめながら、もう一度だけ立ち止まった。
手帳の最後のページに、一行だけ書いた。
『才能は蓄えられる。では、百年後に何が「満ちる」のか』
書き終えて、千斗はペンを仕舞った。
橙色の炎は、風もないのに揺れていた。まるで、来るのを知っていたかのように。