市場が眠っている夜というものがある。

 百年に一度しか開かない場所にも、それはある。開幕と閉幕のあいだにある深夜——客も訪れず、取引の気配もなく、値札だけが潮の匂いを孕んだ風にゆらゆらと揺れている、あの時間のことだ。

 無名はそういう夜が嫌いではなかった。

 正確には、嫌いという感情を持ち合わせているかどうか、すでに自分でも判然としない部分があったのだが、少なくともその時間、彼の内側にある何かがわずかに緩む感覚があった。錆びついた蝶番が少しだけ油を得るような、そういう小さな弛緩だ。

 店の奥、古い桟橋から切り取ってきたような板張りの床に腰を下ろし、無名は帳面をめくっていた。今回の市場でこれまでに成立した取引の記録。記憶の断片、三十一年分の後悔、視力の三割、夏の終わりに感じる哀愁。人々が手放したものたちが几帳面な細い文字で並んでいる。

 縹が傍らにいた。

 いつものように、だ。彼女はいつも無名の少し後ろ、影が寄り添うような距離に存在する。座っているのか立っているのか、あるいはそのどちらでもないのか、見るたびに曖昧で、しかし確かにそこにいる。薄い藍色の気配が、灯籠の光に滲んでいた。

 無名は帳面から目を上げずに言った。

「今夜は随分おとなしいな」

 返事はない。それはいつものことだ。縹は声を持たない——そう、無名は長い時間をかけて自分に言い聞かせてきた。市場にしか存在しない幽影が声を持つはずがない。彼女はただそこにいるだけで、言葉を持たず、問いかけにも応えず、しかし決して離れることもない。

 帳面を閉じた。

 灯籠の芯が小さく爆ぜ、光が揺れた。その瞬間、縹の輪郭がほんの少しだけはっきりした。藍色の着物の裾が板張りの床をすり抜けている。髪が潮風もないのにゆるやかに動いている。彼女の目はいつも閉じているのか開いているのか分からない——薄い膜に覆われた水のような目で、ただ無名の横顔を見ていた。

 無名は帳面を台の上に置き、少し首を傾けた。

 長い沈黙があった。

 港のどこかで夜番の船頭が歌を歌っていた。細くてくぐもった歌声が、路地の隙間から継ぎ接ぎ市場の中まで染み込んでくる。満月まで、あと三日。潮の満ち引きが少しずつ大きくなってきているのを、無名は皮膚の内側で感じていた。市場の輪郭が濃くなり始めている。百年の集積が臨界に近づいている。

 そのとき。

「——帰りたい」

 声がした。

 無名の背筋に、電が走った。

 帳面が台から落ちた。それほど、彼の手が揺れた。

 声は縹から発せられていた。疑う余地はなかった。灯籠の光の中、縹は先ほどと寸分違わない姿勢で佇んでいる。表情は変わっていない。目は相変わらず、あの水の膜の奥に沈んでいる。

 だがその声は——

 無名はしばらく、息を忘れていた。

 聞いた、と思った。確かに聞いた。幻聴ではない。彼はこの百年、幻聴と本物の声を聞き間違えたことは一度もない。それは商人としての精度であり、呪いのような能力だった。

 声の質を、無名は知っていた。

 低すぎず、高すぎず。少し掠れていて、けれども水底から響くような深みがある。雨の前の空気を含んだような、あの声。無名の記憶の中で、その声はある特定の場所に結びついていた。古い井戸の傍で、夕暮れに、名前を呼ばれたあの瞬間に。

 無名はゆっくりと立ち上がった。

 膝が震えていた。それに気づいたとき、自分でも驚いた。この百年で膝が震えたことなど、一度もなかった。怒りも悲しみも、ずっと前から霧に包まれたように輪郭が曖昧だった。取引の代償として積み重なった欠落が、彼の感情を少しずつ霞ませてきた。それでも商いを続けられたのは、感じなくなったからかもしれない。

 だが今、膝が震えていた。

「縹」

 名を呼んだ。声が思ったより低くかすれた。

 縹は答えない。当然のように、微笑んでいた。先ほど言葉を発した口元が、今は柔らかい弧を描いている。何も知らない、何も覚えていない、ただそこに在るだけの微笑みだ。

 無名は一歩、縹へ向かって踏み出した。

 縹の輪郭が揺れた。波に揺れる水面の映り込みのように、彼女の姿が一瞬、焦点を失う。無名は止まった。近づこうとするたびに、縹は遠のく。それも百年で学んだことだ。触れることはできない。それはそういう定めだと、彼は自分に言い聞かせてきた。

 しかし。

「帰りたい、と言ったか」

 声に出すと、言葉の輪郭が実を持った。帰りたい。誰が帰りたいのか。縹が帰りたい場所がどこなのか。この市場より外の世界を、彼女は知っているのか。

 縹は何も答えない。

 微笑んでいる。

 無名は視線を逸らした。台の上に落ちた帳面を見た。床に散らばった今夜の記録を見た。潮の匂いを見た——見えないものを見ようとするのは、この百年で身についた悪い癖だ。

 帰りたい、と言ったのは誰か。

 答えは、無名の最も古い記憶の引き出しの中にある。その引き出しは鍵がかかっている。鍵そのものは無名の手元にない。名前を売った夜、その鍵ごと売り払ったのかもしれない。それでも、蝶番の隙間から、光が漏れていた。

 無名はゆっくりと、板張りの床に膝をついた。

 縹を見た。

 縹は変わらず微笑んでいる。藍色の着物の裾が、存在しない風に揺れている。彼女の目が今夜は少しだけ、開いているように見えた。水の膜の奥に、何か暗い深みがある。深い海底のような、底のない暗さだ。

 無名の胸の中で、何かが鳴った。

 音のない音だった。弦が切れるような、あるいは長い間閉じていた扉がきしむような音。彼はその音に名前を持っていなかった。名前を売る前も持っていたかどうか、分からない。ただそれは確かに、鳴った。

 どれほどそうしていたか。

 灯籠の油が尽きる頃、無名は立ち上がった。

 膝の震えは、いつの間にか収まっていた。表情を整えた。整えることには長けている——客の前では常に、飄々として何事にも揺らがない商人でなくてはならない。それが義務だ。この市場で義務を負った者には、それを全うするほかの選択肢がない。

 帳面を拾い上げた。

 縹を、もう一度だけ見た。

 彼女はまだそこにいた。微笑んでいた。何も知らないように、何も覚えていないように。先ほど発した一言など、はじめからなかったかのように。

 無名は帳面を台に戻し、新しい灯籠の芯に火を入れた。

 帰りたい。

 言葉の残滓が、市場の空気に溶けていた。消えるまでに少し時間がかかった——言葉というのは形を持たないくせに、声に乗ると妙に重さがある。無名はその重さを知っている。名前を売った夜から、言葉の重さに人より敏感になった。

 三日後、満月の夜が来る。

 澪が来る。千斗が来る。そしておそらく、白榊 糸子も来る。

 市場は最後の夜へ向かっている。百年の蓄積が、最後の取引へと傾いていく。

 無名は灯籠の光の中で帳面を開き、続きを書き始めた。

 縹は依然、傍らにいた。

 ただ一つだけ違うことがあった。今夜の縹の目は、微笑みとは少しだけ別の何かを帯びていた。それが何であるか、無名には分からなかった。あるいは分かっていて、分からないふりをしていたのかもしれない。

 帰りたい、と彼女は言った。

 百年前、同じ声が同じ言葉を言った場所を、無名は今も夢に見る。名前を失ってからも、夢だけは売ることができなかった——あるいは、売ることを許してもらえなかった。

 灯籠が揺れた。

 縹の影が、壁にゆらりと映った。人の影にしては少し、輪郭が滲みすぎていた。

真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人

22

縹の声

藍田 夜子

2026-06-04

前の話
第22話 縹の声 - 真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人 | 福神漬出版