眠りに落ちるとき、いつも潮の匂いがした。
澪は目を閉じるたびに、波の音が遠くから近くへと押し寄せてくる感触を知っていた。最初はただの夢だと思っていた。港町に住む者が港の夢を見ることに、何の不思議もない。けれどその夢は、三夜続き、五夜続き、七夜目を迎えた今も、まるで同じ入口から始まるのだった。
路地の狭間。
現世にあるようで、どこにも属さない場所。石畳の継ぎ目に光が滲み、提灯の炎が風もないのに揺れている。澪は自分の足が地を踏んでいるのか確かめるように歩く。靴底に伝わる感触は、夢にしては重すぎた。
「市場はあなたを覚えている」
声が聞こえたのは、七夜目の夢の中だった。
振り向くと、薄藍の気配がそこにあった。少女とも影ともつかない輪郭が、灯りの届かない場所に静かに立っている。縹だった。市場でだけ存在を許された幽影。何も売らず、何も買わず、ただ〈無名〉の傍らに寄り添い続けると聞いていた存在が、夢の中で澪の前に立っていた。
「覚えている、とは」
澪が問い返すと、縹の輪郭がわずかに滲んだ。
「あなたが初めて記憶を売った夜、市場は震えました。人がこれほど丁寧に、大切なものを差し出すのを、市場は久しく見ていなかったから」
その言葉は耳に届くものではなく、胸の中で直接形を結ぶようだった。澪は何も言えなかった。
初めて市場に足を踏み入れた夜のことを、澪はまだ覚えている。いや、覚えている、という表現は正確ではないかもしれない。あの夜取引したのは、亡夫・冬哉と二人で見た初めての夕焼けの記憶だったから。それを売った後、夕焼けそのものの美しさを再現する言葉が、澪の中から消えていた。橙と紫が混ざり合う空の色を何と呼べばいいのか、しばらくわからなくなっていた。
でも縹は言う。市場は覚えていると。
「あなたが売った記憶は、市場の棚に並んでいます。他の誰かに買われることなく、ずっとあなたの名前の傍に置かれている」
「なぜ」
「市場はそういうものです。手放されたものが、本当に手放されたかどうかを、長い時間をかけて確かめる」
縹の声は、どこか遠い水底から響いてくるようだった。幼い声なのに、途方もない年月を含んでいる。澪はふと、縹がどれほどの時間を市場の中で過ごしてきたのかを想った。百年前から。それとも、もっと前から。
「取り戻せますか」
問いが口をついて出た。縹は答える前に、一歩だけ後退した。
「それはあなたが決めることです。ただ——」
言葉が途切れた。澪は前のめりになった。夢の空気が、息をひそめるように静まった。
「最後に残ったものを持ってくるなら、市場もあなたに向き合うでしょう」
それきり縹の姿は霧のように散り、澪は眠りの底から引き上げられるようにして目を覚ました。
窓の外はまだ暗く、波の音だけが変わらず続いていた。
◆
その日から、澪は自分の中を確かめるように過ごした。
冬哉の記憶は、もうほとんど残っていなかった。声を先に売った。笑い方を売った。どんな時に黙り込むかを売った。一番好きだった食べ物を売った。最後に病床で交わした言葉を——あれを売ったのはいつだっただろうか——売った。売るたびに澪は少し軽くなり、軽くなるたびに、自分が何かを失っているのかどうかすら判断できなくなった。
残っているのは、一つだけだと、澪はわかっていた。
それは形になっていない。感情とも記憶とも呼べない、もっと奥深くに刻まれたもの。冬哉と過ごした年月の総体が、最後の最後に結晶したもの。名前をつけるなら、そうだ、あれは——
思い出せなかった。
名前すら思い出せないのに、それが自分の中にあることだけは確かだった。胸の奥の、触れたら崩れそうな場所に、まだ灯りのようなものが残っている。澪はそこに手を伸ばすことができずにいた。何年も。市場に通い続けながらも、それだけは差し出せなかった。
縹は言った。最後に残ったものを持ってくるなら、と。
澪は長い夜、卓袱台の前に座り続けた。冬哉の形見である一枚の布切れを両手に包み、何度も何度もその質感を確かめた。布はもう何年も洗い続けたせいで薄くなり、色も褪せていた。それでも澪はこの布を捨てられなかった。形あるものは売れない。市場が求めるのは目に見えないものだから。だから澪はこれを持ち続けていた。形あるものに、形のないものを預けて。
「冬哉さん」
呼びかけても、答える声はなかった。それは当たり前のことだった。当たり前のことが、今夜は特別に重く澪の胸に沈んだ。
もし最後の断片を売ったとして。
取り戻した記憶を全部受け取り直したとして。
それで何が変わるのだろう。冬哉は戻らない。戻らないと知りながら、澪は何のために市場に通い続けたのか。
問いの答えは、ずっと出なかった。
けれど今夜、夢の中の縹の声を反芻しながら、澪はようやく一つのことに気づいた。取り戻したいのは冬哉ではなかった。取り戻したいのは、冬哉を愛していた自分だったのかもしれない。売るたびに削れていったのは、ただの記憶の断片ではなく、あの日々の中で澪が確かに生きていたという手触りだった。
それを取り戻すために、最後に残ったものを持っていく。
決意は静かに降りてきた。激しい感情の波ではなく、長い時間をかけて砂が沈むような、ゆっくりとした決意だった。
澪は布を胸に当てたまま、もう一度目を閉じた。眠れるかどうかわからなかったが、潮の音だけが変わらずそこにあった。
◆
夜明けが来た。
灰色の光が窓の向こうに滲み、鳥の声がどこかから届いた。澪は眠れないまま朝を迎えたが、不思議と疲れは感じなかった。
卓袱台の上に、澪は一枚の紙を置いた。市場で求められるのは無形のものだが、澪は持っていくものを言葉にして確かめる習慣があった。
筆を手に取り、澪は書いた。
——冬哉と過ごした年月の、最後の温度。
書いてから、澪は長い間その文字を見つめた。これを差し出したとき、自分は何者になるのだろう。空になった器になるのか。それとも——
答えは、まだわからなかった。でも市場が次の満月を呼ぶその夜まで、澪は答えを探しながら生きていくつもりだった。
縹の声がまだ胸の奥に残っていた。
市場はあなたを覚えている。
ならばきっと、澪が最後に差し出すものを、市場も静かに待っているはずだった。
窓の外の海が、朝の光の中でゆっくりと色を変えていく。橙でも紫でもない、名前のつけようのない色。かつて夕焼けを愛した記憶を売った澪には、もうその色を正確に呼ぶ言葉がなかった。
それでも美しいと思った。
その「美しい」という感覚だけは、まだ澪の中に残っていた。誰にも売らずに。
それが最後の、最後の灯りだと、澪はまだ知らなかった。