夜が白む前の時刻が、白榊糸子はもっとも好きだった。
世界がまだ決まっていない。昨日の残骸と今日の予兆が溶け合って、どちらにも属さない曖昧な青さが空に満ちる。その時刻に彼女は決まって書庫へ下りる。老いた足に階段は堪えるが、それでも止めたことはない。七十年来の習慣だ。
屋敷は港町の高台にある。三代前の監査官が建てたもので、外壁は潮風に削られ、窓の木枠はどれも歪んでいる。だが書庫だけは違った。地下に穿たれたその部屋は、外の時間から切り離されているかのように、いつ訪れても同じ冷たさと同じ匂いを保っている。古紙と乾いた墨、そしてわずかに潮の気配。
糸子は燭台に火を入れ、棚の間を歩いた。
棚は壁の天井まで届き、そこに並ぶ帳簿と書類束は、彼女が生まれる以前から積み重ねられてきたものだった。継ぎ接ぎ市場が現れるのは百年に一度。だが監査官の仕事は市場が閉じている九十九年と三百六十四日のほうが、むしろ長い。記録を整理し、前回の取引の影響を追跡し、次の出現に備える。それが代々の監査官の務めだった。
糸子がこの職を継いだのは二十三のときだ。師は言った。市場は美しい、と。同時に、危うい、とも。
見えないものを売り買いする場所。記憶、感情、才能、寿命。目に見えない価値を持ったものが、あの薄闇の路地に並ぶ。客はみな切実で、みな壊れかけていて、みなそれゆえに判断を誤る。監査官の仕事とは、その誤りを記録し、必要とあらば取引を無効化し、市場が人を損なう道具になることを防ぐことだ、と。
若い頃の糸子は、その言葉を信じていた。
純粋に、信じていた。
燭台の炎が揺れた。糸子は棚の奥へと手を伸ばし、一冊の帳簿を引き出した。表紙には細い筆で「第七期・取引録 前半」と記されている。七期というのは今回から数えて七百年前の市場、すなわち糸子より六代前の監査官が記した記録だ。彼女はその帳簿を読みたかったわけではない。ただその隣に置かれた、ひどく薄い一冊を取り出したかった。
背表紙に文字はない。
開けば、紙はある。丁寧に綴じられた和紙が、几帳面に並んでいる。だがどのページにも何も書かれていない。墨の一滴もなく、どんな署名もなく、取引の記録も、客の名も、交換された品の目録もない。完全な空白だった。
糸子は机に帳簿を置き、燭台を傍らに寄せた。老眼鏡を鼻の頭にかけ、空白のページを一枚ずつめくっていく。毎回そうする。毎回、何もない。わかっていても、確かめずにはいられない。
第七期の市場。七百年前。そこに一件、記録のない取引がある。
いや、正確には違う。取引そのものの記録はある。別の帳簿に、断片的に。ある商人が市場に現れ、己の「名前」を売ったという記録が。買い手は市場そのもの、あるいは市場を束ねる何らかの意思だったと、当時の監査官は書き残している。だが商人の名は、どこにも記されていない。名前を売った者の名を書き留めるすべがなかったからだ。当然のことだ。
帳簿の表紙に、ただ「無名」と誰かが後から書き加えたらしい痕跡がある。インクの色が他と微妙に違う。
その空白の帳簿が、書庫に届いたのは十二年前だった。
差出人は不明。港の船問屋に預けられていたものを、縁のある者が屋敷まで届けたという。中を開いたとき、糸子は長いあいだ何も考えられなかった。空白であることが、雄弁すぎた。記録されるべき何かが、ここに入るはずだった。入れられなかった。あるいは意図的に空けられた。
七百年のあいだ、この帳簿は誰かに持たれ続けていたのだ。
糸子は眼鏡を外し、指の腹で目頭を押さえた。
今回の市場が現れて、彼女が動き始めたのには理由がある。公式の理由は「取引の監査と、必要であれば封鎖権限の行使」だ。それは本当のことだ。市場が人を損なってきた事例を、糸子は百年分の記録から数え上げることができる。記憶を売り尽くして己が何者かわからなくなった女。寿命を切り売りして三十年早く死んだ男。才能を手放して以来、ただの抜け殻になった子供。
だが、もう一つの理由がある。
糸子は立ち上がり、書庫の奥へ歩いた。最も古い棚の、最も低い段。そこに小さな木箱が置いてある。鍵はない。糸子以外に触れる者がいないからだ。
箱を開けると、中には一枚の紙片がある。
色褪せた、もう文字の判読も難しいほど古い紙だが、糸子には暗記している。六十年以上、繰り返し読んだから。
そこには、ある取引の覚書が記されている。市場の外で交わされた、非公式の取引の記録。売ったのは彼女の祖母だった。祖母が手放したのは「娘への愛情」だった。正確には、愛情そのものではなく、愛情を感じる能力の一部だ。そうすることで、祖母は重い病から生き延びた。
糸子の母は生涯、自分が愛されていないと信じて死んだ。
糸子自身も、長いあいだそうだった。祖母が冷たいのは性分だと思っていた。母が傷ついているのは、気性の問題だと。この紙片を見つけたのは、祖母の荷物を整理しているときだった。四十のときのことだ。
愛情は奪われたのではなく、売られたのだ。
代価として命を買い、愛する能力を失い、娘と孫を傷つけ続けた。本人は気づかないまま。市場は、そのことを誰にも告げなかった。
燭台の炎が、ふたたび揺れた。
糸子は木箱をそっと閉じた。怒りはとっくに燃え尽きている。残っているのは、もっと静かで厄介なものだ。使命、とでも呼ぶべき感覚。市場は存在すべきではない、という確信。いや、違う。市場そのものへの断罪は、筋違いだとわかっている。火が人を焼くからといって火を憎むことはできない。
問題は、見えないものを切り売りする人間たちが、何を失うかを理解していないということだ。
朱雀澪という女のことを、糸子は何度も思った。亡き夫の記憶を少しずつ手放してきた未亡人。会ったことはまだないが、記録には残っている。前回の市場ではなく、今回。この百年以内に市場に通い始めた、ということはありえない。だとすれば彼女は今回の出現を待ち続けていたのか。それとも記録に誤りがあるのか。
そして、名無しの商人。
空白の帳簿の、空白のページたち。
糸子は立ったまま、しばらくその帳簿を見つめた。七百年前に名前を売った商人が、今もあの市場に立っているとしたら。そのことは、何を意味するのか。名前を売った代価として、何らかの義務を負わされているとしたら。その義務が果たされないかぎり、商人は市場から離れられないとしたら。
封鎖すれば、彼はどうなる。
糸子は問いを追い払うように首を振った。感傷は不要だ。市場を封鎖することが正しい。記録がそれを証明している。百年分、七百年分の傷の総量が。
だが空白のページは、何かを問いかけてくるように思えた。
書かれなかった名前のことを。語られなかった交換のことを。
糸子は帳簿を棚に戻し、燭台を持って階段へ向かった。夜明けが来る。今日も仕事がある。千斗という少年の動きを確認しなければならない。外套の男も気になる。市場の外に影響が滲み出しているとすれば、それもまた記録せねばならない。
一段、また一段と上がりながら、糸子はふと思った。
空白のページに、もし名前が戻る日が来たとしたら。その瞬間を、自分は記録する側にいるのか。
答えは出なかった。
階段の上で、まだ青い夜明けの光が待っていた。