潮が満ちるとき、この町は息をする。
それを初めて知ったのは、夫が死んだ翌朝のことだった。
朱雀澪は暗いうちから目が覚め、夫の眠らない布団の冷たさに手を当て、それからそっと家を出た。理由はわからなかった。ただ、家の中にある空気の重さに耐えられなかっただけかもしれない。細い路地を抜け、石畳の坂を下りていくと、夜明け前の港が開けた。海は黒く、水平線だけが紫がかった淡い光の帯に縁取られていた。その瞬間、潮の香りが一気に押し寄せてきた——塩と腐葉土と、遠い場所の雨の匂いが混じった、生き物の吐息のような風。澪は思わず立ち止まり、それから初めて泣いた。泣きながら、この町は息をしているのだと思った。夫はもう息をしていないのに、と。
あれから三年が経つ。
澪は今もその癖が抜けない。夜が明ける前に目を覚まし、空の布団に触れ、それから港へ向かう。石畳は三年分の靴底で磨かれ、今では半ば無意識に足が動く。老いた漁師たちが網をほどき始める頃、澪は防波堤の端に座り、海を見る。それだけだ。何かを求めているわけではない。ただ、ここにいると、失ったものの輪郭だけが確かに感じられる気がした。
夫の名前は健吾といった。
今の澪には、それしかわからない。
おかしな話だと自分でも思う。三年前まで、澪は夫との十二年分の日々を持っていたはずだった。初めて会った日のこと、結婚した年の桜のこと、病が判明したときに二人で黙って食べた夕飯のこと。それなのに今、記憶の棚を探っても、健吾の顔がぼやけている。声の質感が思い出せない。何が好きで、何を嫌いで、眠るときにどちら向きで横になっていたか——そういうことが、砂が手の平からこぼれるように、ひとつひとつ消えていった。
夢の中にだけ、彼は現れる。
いつも後ろ姿だ。路地の角を曲がる瞬間、人混みの向こうに消えていく瞬間——振り返ってくれない。呼んでも声が届かない。夢の澪はいつも走り続け、そして目が覚める。布団の冷たさの中で、また少し、何かが薄れていることに気づく。
医者には相談した。「悲嘆による解離」という言葉をもらった。「時間が解決します」とも言われた。でも時間は何も解決しなかった。むしろ時間は、夫との記憶を少しずつ、丁寧に、取り除いていった。まるで誰かが夜のうちに部屋に忍び込んで、大切なものをひとつずつ持ち去っているようだった。
今日は、健吾の三回忌の前日だった。
防波堤から戻る澪の足が、今朝は路地の途中で止まった。
見知らぬ老婆が、石畳の隅に小さな床几を置いて座っていた。売り物らしきものは見当たらない。ただ、足元に古びた木箱がひとつあるだけだ。老婆は澪の顔を見ると、皺だらけの目を細めた。
「ずいぶんと、欠けた顔をしておいでだね」
澪は足を止めた。失礼な言葉のはずなのに、なぜか咎める気になれなかった。老婆の声には、責めるような色がなかった。ただ、見えているものを口にしただけ、という静けさがあった。
「朝の散歩です」と澪は答えた。
「散歩には見えないよ。探し物をしている顔だ」
老婆は木箱の上にそっと手を置いた。節くれだった指が、古い木目をなぞる。
「何かを亡くされたかね」
澪はしばらく黙っていた。潮騒が路地の奥まで届いてくる。この問いに何度答えてきたことだろう、と思った。そのたびに「夫を」と言い、相手は少し悲しそうな顔をして、「お辛いですね」と言う。その言葉は正しいし、親切なのだが、どうしても的を外れている感じがした。辛いのではない。空洞なのだ。埋めようのない空洞に、自分ごと落ちそうになっているのだ。
「記憶を」
口を開くと、思っていたのと違う言葉が出た。老婆は眉を動かさなかった。
「亡くなったのではなく、忘れてしまったのですか」
「忘れたくないのに、忘れていくんです」
老婆は深くうなずいた。その動きがあまりにゆっくりしていて、澪はなぜかこの人は長い時間の中に生きているのだと感じた。積み重なった年月が、老婆の骨格そのものを変えてしまったような重さ。
「それはつらいことだ」と老婆は言った。「喪うよりも、薄れていく方が、長くかかる苦しみだから」
澪は黙って老婆の言葉を受け取った。
「あなた、市場を知っているかね」
「市場、ですか」
「継ぎ接ぎ市場。百年に一度だけ、大潮の満月の夜に、路地の狭間に立つ。次は今月の満月だよ」老婆はそう言いながら、木箱から小さな紙片を取り出した。古い紙で、縁がほつれている。「そこでは、見えないものを売り買いする。記憶も、感情も、才能も、名前も——なんでも値がつく。そしてなんでも手に入る。対価さえ払えばね」
澪は紙片を受け取った。何かが書いてあるようだが、文字が読めない。潮風のせいか、あるいはもともとそういうものなのか、見ようとするほどに文字がぼやけた。
「亡くした記憶が、戻ってくることもあるんですか」
問いかけながら澪は、自分がすでにこの話を信じかけていることに気づいた。馬鹿げた話だ。路地の老婆から聞いた怪しい市場の噂。けれど笑い飛ばせなかった。なぜなら、そうでなければ、澪には行く場所がなかった。医者も、時間も、言葉も——何も届かない場所に、澪はいた。
「戻るかどうかは、取引次第だよ」と老婆は言った。「でも、市場は正直だ。誤魔化しはきかないし、騙しもしない。あなたが何かを差し出せば、何かが返ってくる。ただし——」
老婆はそこで一拍置いた。皺の奥の目が、何か遠いものを見るように細くなった。
「何を差し出すことになるかは、あなた自身にもわからない。市場が決めることだから」
澪は紙片を握ったまま立っていた。路地の奥から朝の光が射し始め、石畳が少しずつ色を取り戻していく。老婆の床几も、木箱も、朝の光の中では見慣れたものに見えた。なのに、老婆の言葉だけが、違う光を帯びていた。
「満月は、いつですか」
「七日後だよ」老婆は静かに答えた。「市場は夜半過ぎに立つ。夜明けには消える。一度でも迷えば、二度と入り口を見つけられないと言われているけれどね」
老婆は立ち上がった。ひどく小さな体だと澪は気づいた。木箱を抱えると、老婆は路地の奥へ向かった。一歩、二歩と踏み出すたびに、その影が朝の光に溶けていくような気がした。澪は引き止めようとして、声が出なかった。
気づいたときには、路地には誰もいなかった。
石畳に、老婆の残した小さな靴跡があった。それもすぐに、海から来た風の中に消えた。
澪は紙片を見下ろした。文字が、今は読めた。読めた、というより、頭の中に意味だけが流れ込んできた。
そこには一行だけ書かれていた。
——あなたの失ったものは、まだそこにある。
潮が満ちてくる音がした。
この町が、深く息を吸う音だと、澪は三年前から知っていた。でも今朝は、何かが違う気がした。まるで自分が、その息の中に引き込まれていくような、そんな予感があった。
七日後の満月を、澪は数えながら家路についた。歩きながら、ずっと忘れていた何かを思い出しかけているような——健吾が笑ったときの目の形が、ほんの一瞬だけ、脳裏を掠めた気がした。
それは幻かもしれなかった。
でも澪は足を止めて、その感触が消えないうちに、胸の奥にそっとしまった。