霧は午後になっても晴れなかった。
昼食を終えた透が中庭へ出ると、白い空気がしっとりと肌に触れた。北アルプスの霧は朝だけのものではない。この山の懐に宿った湿気は、時刻も季節も関係なく漂い続けている。霧積館という名はそこから来ているのだと、誰かが言っていた。誰か、という曖昧さが、最近の透には珍しくなくなっていた。自分が聞いたのか、誰かが思い出したのか、その境目がすでに霧のように不分明なのだ。
石畳の小径は苔むして滑らかだった。透は両手をコートのポケットに突っ込み、目的もなく歩いた。館の裏手に回ると、手入れの行き届いた植え込みが霧の中にぼんやりと浮かんでいた。晩秋の枯れた草の匂いが鼻をつく。
そこに、人影があった。
ベンチに腰かけた女性が、膝の上に開いた本をそのままにして、どこか遠くを見つめていた。見つめるというより、視線を捨てている、という方が正確かもしれない。焦点を持たない目で、霧の向こうの何かを、あるいは何もないところを眺めていた。
夏目霞、と透は思った。
礼子から名前だけは聞かされていた。この館で最も長く暮らしている女性。記憶を他者へ「渡す」ことができる能力を持つ人間。それ以上のことは礼子も多くを語らなかった。語らなかったのか、語れなかったのかは、今もわからない。
「立っていると靄が染み込みますよ」
霞が透の方を向かずに言った。声は静かで、抑揚が少ない。感情の起伏を語尾に乗せることを、最初から諦めているような声だった。
「……気づいていましたか」
「気配、というより気圧の変化で。あなた、人より少し重いから」
透は自分の体格を思い返した。特別に重くも軽くもないはずだった。しかし霞の言い方は体重のことではないような気がして、透はそれ以上訊ねなかった。
霞の隣のベンチに距離を置いて腰かけると、彼女はようやく透の顔を見た。三十代だろうか、あるいはもっと若いかもしれない。だが目元には、年齢が刻む皺よりも深いところに疲労が沈んでいた。陶器のように白い肌に、黒目がちな瞳がやや浮いて見えた。
「新しい人は久しぶりです」と霞は言った。
「そうですか」
「ここ三年で来たのはあなたが二人目。一人目は……」
霞が少し間を置いた。
「もういないわ」
透は三島の名前が喉まで来て、飲み込んだ。まだその名前を口に出すことが、どういう意味を持つのか計りかねていた。
二人は並んで黙った。霧が流れ、植え込みの枯れ枝がわずかに揺れた。遠くで鳥が鳴き、それも霧に吸い込まれてすぐに消えた。
「あなたの能力のこと、少し聞きました」と透は言った。「記憶を渡すことができるって」
「ええ」
「渡す、とはどういう感覚なんですか」
霞は膝の本を閉じた。それから少し考えるように視線を落とした。
「自分の中にあるものを、切り分けるような感じ。ちょうどパンを半分にするみたいに。渡した方は薄くなるけれど、なくなるわけじゃない。コピー、とは少し違う。ある記憶を渡すと、わたしの中でその記憶の色が褪せていく。そのうち、本当にあったことなのか確信が持てなくなってくる」
「消えるんですか」
「消えない。でも、遠くなる。靄の向こうへ行ってしまう感じ。ちょうどここの霧みたいにね」
透は自分の能力のことを考えた。吸収すること。無意識に、気がつけば他人の記憶が自分の中に入ってくる。霞とは逆だ、と思った。与える者と、取り込む者。
「渡すことは、よくするんですか」と透は訊いた。
霞は答えるまでに少し時間がかかった。
「以前は、した。今はほとんどしない」
「なぜ」
「渡すことで傷ついた人を、見てきたから」
霞の声に初めて、微かな感情の縁が見えた気がした。棘ではなく、擦り切れた布の端のような、静かな痛みだった。
「わたしが善意で渡しても、受け取る側がそれに耐えられるとは限らない。重すぎる記憶は、人を変えてしまう。変えたくない記憶を変えてしまう。わたしはそれをずっと見てきた」
透は頷いた。それはある種、自分の能力と似ていると思った。ただし透は意図せず奪うのだ。善意さえない。
「あなたは吸収するのね」と霞が言った。訊くのではなく、確認するように。
「らしいです。自分ではいつの間にか、という感じで」
「自覚はある?」
「少し。誰かの近くにいると、何かが流れ込んでくるような感覚があります。でも気づいた時にはもう、それが自分の記憶なのか他人のものなのかわからなくなっている」
「気持ち悪くない?」
透は少し驚いた。感情的な問いを、霞がするとは思っていなかったから。
「気持ち悪い、という感覚より、怖い方が近いです。自分がどこにいるのかわからなくなる。境界線がなくなっていくような」
霞は透を見た。その目に、初めて何か——同情とも共感とも違う、もっと鋭く内向きな感情——が宿った。
「わたしも似たことがある。渡しすぎた時期は、自分の記憶がどこからどこまでなのかわからなくなった。あなたは取り込む。わたしは渡す。向きは違っても、境界が溶けるのは同じ」
透はその言葉を胸の中で繰り返した。境界が溶ける。
「霞さんは長くここにいるんですね」
「十一年」
「外へ出ようとは思わない?」
霞は少し笑った。笑い、と呼んでいいのかわからないほど小さな変化だったが、口の端が僅かに動いた。
「出られない、というより、出る必要がなくなった。外にわたしを待っている人がいない。記憶をここに置いてきてしまったから」
透はその意味を問い返すことができなかった。霞の言葉は問い返すことを想定していない密度を持っていた。
ふいに、霧が濃くなった気がした。植え込みの輪郭が滲み、館の石壁が白い靄の中に半ば溶けた。霞は空を見上げた。
「三島さんのことを、調べているの?」
透は息を止めた。
「……はい」
「礼子さんから聞いた」
「霞さんは、三島さんのことを知っていましたか」
「ここにいれば、誰でも知るわ」
その答えは何かを回避していたが、透はそれ以上押さなかった。霞の目が、一瞬、遠い場所を向いたような気がしたから。
ベンチから立ち上がる気配を感じて透も顔を上げると、霞は既に立っていた。本を胸に抱き、透を静かに見下ろしていた。
それから霞は一歩近づいた。
透が何かを言う前に、霞の細い指が透の手の甲にそっと触れた。冷たかった。石のように冷たく、しかし確かに生きている指だった。
霞は透の目を真っ直ぐ見た。その目は、ずっと遠くを見ていた目とは別の焦点を持っていた。鋭く、透の内側の、透自身も見えていない部分を見るような目だった。
「あなたは危険ね」
囁き声だった。責めているのでも、警告しているのでもない。ただ、事実を確認するような声。
透が言葉を探す間に、霞の指は離れ、霞は踵を返して石畳を歩き始めた。霧の中へ、白い靄の中へ、その後ろ姿はあっという間に薄れていった。
透は手の甲を見た。冷たさはすぐに消えた。だが何かが残っているような気がした。霞の体温ではなく、もっと別の、形のないものが。
霧が流れた。
透は自分の中を静かに点検するように目を閉じた。三島の名前を聞いた時、頭の奥で何かが微かに動いた。記憶ではない。記憶の予感のような、これから形になろうとしている靄のような何かが。
霞はそれを見たのだろうか。
透はそこで初めて気づいた。彼女は「危険」という言葉を、透への警告として使ったのではないかもしれない。もしかしたら——。
風が来た。霧が揺れ、植え込みが一斉にざわめいた。
もしかしたら霞は、透の中に既に誰かがいることを、知っていたのかもしれない。