朝が来た、と透が気づいたのは、靄の中から光が滲むような、そういう曖昧な感覚によってだった。

 北アルプスの夜明けは平地のそれとは異質だった。闇が一度に引いていくのではなく、重なり合った布を一枚ずつ剥がすように、少しずつ白んでいく。霧積館の廊下に面した細い窓から差し込む光も同じで、明るいとも暗いとも言えない曖昧な色をしていた。

 透は早朝、まだ他の患者たちが起き出す前に廊下へ出た。昨夜の决意を果たすためだった。自分の名前が刻まれた木の名前札。その古びた質感が、眠れない夜の間ずっと、指先に残った感覚のように意識を占領していた。

 廊下の窓枠に近づく。昨夜見つけた傷跡は、陽光の中でより鮮明だった。不規則に刻まれた線のように見えたそれは、改めて目を凝らすと文字ではなく、ただの木材の割れだった。あるいは、文字だと思いたかった自分が、割れ目に意味を読み込もうとしていただけかもしれない。透はしばらくそこに立って、自分の感覚を疑った。他者の記憶が混ざり込んでいると、こういうことが起きる。存在しない何かを、確かにあると感じてしまう。

 「早起きですね」

 声は背後から来た。

 振り返ると、廊下の端に女性が立っていた。五十代半ばだろうか。丸みを帯びた体格に、地味な灰色のカーディガンを羽織っている。眼鏡の奥の目は小さく、しかし妙に正確な光を宿していた。小脇に分厚いノートを抱えている。

 「富樫礼子と申します。記録係をしております」

 そう言いながら軽く頭を下げる所作は、何かを観察しながら同時に挨拶するという、二つの行為が見事に重なっていた。

---

 食堂の片隅のテーブルに、二人で向き合って座った。他の患者たちはまだ来ていない。調理場の奥から、かすかに湯の沸く音が聞こえた。

 富樫礼子は卓上に手帖を置いたが、すぐには開かなかった。

 「霧積館にいらして、まだ二日目でしたね」と彼女は言った。「戸惑っていることがたくさんあるでしょう。私でよければ、お話しします」

 「記録係というのは」と透は訊いた。「どんな仕事なんですか」

 「院長先生から命じられたことは一つだけです」礼子は言った。「ここで起きることを、正確に書き留めること。それだけです」

 「患者の観察、ということですか」

 「観察、というよりは」礼子は少し間を置いた。「証言の保全、と私は思っています。ここにいる方々は、皆さん、記憶に関わる特別な体質をお持ちです。記憶というのは変わるものです。薄れたり、混ざったり、書き換えられたりする。だから誰かが、変わらない形で記録しておく必要がある」

 透は彼女の言葉を聞きながら、その目の正確さについて考えていた。記憶能力者たちの中に置かれた、能力を持たない人間。それがどういうことなのかを、礼子はどのように理解しているのだろう。

 「あなた自身は」と透は言いかけ、少し躊躇した。「失礼な聞き方になるかもしれないんですが、あなたには、そういう体質は」

 「ありません」礼子はあっさりと答えた。「私は普通の人間です。記憶を読むことも渡すことも消すこともできません。院内では私だけがそういう存在です」

 自嘲のような笑みが、ほんの一瞬、口元に浮かんだ。

 「だからこそ、記録係に向いているとも言えます。影響を受けませんから。皆さんの能力が私に作用することもないし、私が皆さんの記憶に干渉することもない。ガラスケースの外から眺めているようなものです」

 「寂しくないですか」

 言ってから、透は余計なことを言ったと思った。しかし礼子は気分を害した様子もなく、しばらく考えてから答えた。

 「慣れるものです」

---

 礼子が霧積館に来たのは、開館から三年後のことだという。碓氷院長とは旧知の縁があり、記録係として招かれた。以来、十一年になる。

 「十一年」と透は繰り返した。「ずっとここにいるんですか」

 「年に一度か二度、麓の町へ下りることがあります。それ以外はここです」

 透は霧積館に来るまでの道のりを思い出した。バスを乗り継ぎ、山道を歩き、霧の中に浮かぶように建つ石造りの館を見た時の、あの感覚を。外界から切り離されたここに、十一年いるということを想像しようとして、うまくできなかった。

 「患者の方々は、入れ替わりがありますか」と透は訊いた。

 礼子は少し表情を変えた。変えた、というより、それまであった何かが引いたような変化だった。

 「ありました」と彼女は言った。「来られる方もいれば、出られる方もいます。そして」

 一拍置く。

 「ここで亡くなった方も、いらっしゃいます」

 透は何も言わなかった。礼子も続けなかった。窓の外の霧が、ゆっくりと流れていく。

---

 しばらくして礼子が手帖を開いた。

 「よろしければ、少しお見せします。どういう記録をしているか、参考程度に」

 手帖の紙は変色しており、隅が丸くなっていた。長く使われたものだということがわかる。礼子がページを繰る手つきは慣れていて、迷いがなかった。

 透は手帖の内容を覗き込む。細かい字で、日付と共に観察が記されていた。名前は伏せ字になっているものもあったが、行動の描写、発言の抜粋、表情の変化、といったものが丁寧に書き連ねられている。ある患者の食事中の様子。別の患者が庭を歩いた時間。誰かが誰かに話しかけた言葉の正確な再現。

 記憶能力者たちの記録を、記憶能力を持たない人間が記している。その構造の奇妙さを、透は静かに感じた。彼女はここに書かれた文字によってのみ、この館の時間を保持している。

 「すごいですね」と透は思わず言った。「詳細で」

 「観察するのが習慣になってしまって」礼子は答えた。「気がつくと、誰かを見ています。申し訳ないと思うこともあるのですが、やめられない」

 透はページを追いながら、礼子の洞察の正確さに驚いていた。能力者でないにもかかわらず、人の変化を読む精度は、透が今まで会った誰よりも鋭かった。いや、能力を持たないからこそ、こういう見方ができるのかもしれない、とも思った。皮膚ではなく、目と耳だけで人を見続けてきた年月が、礼子を違う種類の観察者にしていた。

 礼子がページを繰った時、透はふと気づいた。

 ページの端に、小さな凸凹がある。

 透はその部分に目を止めた。ページが均等に並んでいるはずの場所に、不自然な段差があった。指でそっと触れると、紙の縁が不規則になっていることがわかる。

 破り取られた痕だった。

 一ページ、あるいは複数ページ。根元から丁寧に剥がされたのではなく、引きちぎるように取られている。紙の繊維が毛羽立ち、白い縁が残っている。

 「これは」と透は言いかけた。

 礼子が顔を上げた。透の視線が向いている場所を確認し、一秒の間を置いてから、手帖をゆっくりと閉じた。

 「気になりますか」

 「破れていますね。ここのページ」

 「ええ」礼子は手帖を膝の上に移した。「そうですね」

 それ以上のことを、彼女は言わなかった。透も聞けなかった。礼子の顔には何の感情も出ていなかったが、手帖を持つ指に少し力が入っているように見えた。

 窓の外で、霧が動いた。

 遠くで誰かの足音がした。他の患者が起き出してきたのだろう。礼子はゆっくりと立ち上がった。

 「またいつでも話しかけてください」彼女は言った。「ここでは私が一番の古株ですから、わからないことがあれば」

 「ありがとうございます」

 礼子が食堂を出ていく。その後ろ姿を見ながら、透は手帖のあの部分を思い浮かべていた。破り取られたページ。礼子は問いに答えなかったのではなく、答えることができない理由があるのだと思った。

 何が書かれていたのか。誰が取ったのか。あるいは礼子自身が取ったのか。

 朝の霧が、また少し深くなっていた。

 透は手のひらを見た。他者の記憶を拾ってしまうこの皮膚は、今朝、礼子の手帖の表紙に一瞬だけ触れていた。けれど何も感じなかった。手帖には記憶がなかった。当然だ、と透は思う。紙に記憶は宿らない。

 ただ、礼子の指先に触れた瞬間だけ、ほんの僅かに何かを感じた気がした。

 それが礼子自身の記憶なのか、それとも透の思い込みなのか、今の透には判断できなかった。その判断ができないことが、今の透の最も根本的な問題だった。

霧の中の十四番目の証人

3

記録係の手帖

朧月 汐音

2026-05-16

前の話
第3話 記録係の手帖 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版