霧が濃い夜だった。
窓の外では白い闇が渦を巻き、窓枠さえも輪郭を失いかけている。透は蛍の部屋の前で立ち止まり、ドアノブに触れないまましばらく佇んでいた。春日陽の言葉が頭の中でくり返される。廊下にいた。蛍が、廊下にいた。それなのに双子の間で記憶が共有されなかった。
ノックをする。返事はない。もう一度、今度は少し強く。
「……開いてる」
くぐもった声だった。扉を押すと、蛍は窓に背を向けて壁に寄りかかり、膝を抱えて座っていた。部屋の電灯はついておらず、廊下から差し込むわずかな光だけが彼の横顔を薄く浮かび上がらせている。その顔は、透がこれまで見たどの蛍とも違った。無感情という仮面が、どこかへ落ちていた。
「話を聞かせてほしい」
透は部屋に入り、蛍の斜め前にある椅子を引いて腰を下ろした。蛍は答えない。ただ、透の目を見ようとしない。視線は床の一点に落ちたまま、指先がゆっくりと膝頭を引っかいている。
「陽さんが証言した。事件の夜、廊下にいるお前を見たって」
沈黙。
「蛍」
名前を呼ぶと、かすかに肩が揺れた。
「……知ってた」
蛍の声は低く、掠れていた。
「あの人が見てたのは、わかってた。でも言えなかった。言ったら——」
言葉が途切れる。透は待った。急かすことなく、ただそこにいた。霧積館に来てから覚えた待ち方だ。この場所では、言葉は急いで引き出すものではない。それは誰かの記憶と同じで、無理に掘り起こせば形が崩れる。
「……俺は、三島さんを殺してない」
絞り出すような声だった。
「わかってる」と透は言った。確信があったわけではない。ただ、そう言わなければならない気がした。
蛍がゆっくりと顔を上げる。瞳に光が戻ったわけではなかったが、何か——長く閉じていた扉の蝶番が、錆びたまま動き始めるような——そういう気配があった。
「あの夜、眠れなかった。よくあることだ。夜中に廊下を歩くのが習慣だった。三島さんの部屋の前を通りかかったとき、声が聞こえた」
「声」
「三島さんの声と——もう一人。誰かと話してた。静かな声だったけど、確かに二人分だった」
透の背筋に冷たいものが走った。三島の死は密室で発見された。その夜、三島は誰かと話していた。それは——
「誰の声だった」
「わからない」
蛍の指先が止まる。
「聞き取ろうとした。扉に耳を近づけて——そのとき、俺は無意識にやってたんだと思う。その声を、記憶に刻もうとした。誰なのか確かめようとして、全力で聞き取ろうとして——」
蛍は両手で顔を覆った。その仕草が、透には痛ましかった。普段は人形のように静止している少年が、こんなふうに自分の顔を隠す。
「暴走した」
蛍は言った。手の平の向こうから、くぐもった声が続く。
「俺の能力は——消すだけじゃない。強く記憶しようとしたとき、反転する。保存しようとした記憶が、そのまま消える。昔から何度もあった。大切なものを覚えようとするほど、消えていく。だから俺は何も覚えようとしないようにしてた。なのに——あの夜は、咄嗟に動いてた。誰の声かを知りたかった。それだけで、制御を失った」
透はゆっくりと息を吐いた。
第五話で見た夢のことを思い出す。ノイズのように歪んだ映像。幼い蛍が何かを見ようとして、画面が砂嵐になる。あれは彼が消してしまった記憶の残骸だったのだ。記憶を吸収する自分の体に染み込んだ、蛍の喪失の痕跡。透はその夢の意味をずっと掴めずにいたが、今、全てが一本の糸でつながる感触があった。
「……消えてしまった記憶は、戻らないのか」
「戻らない。一度消えたものは——ない。存在しなかったことになる」
「それは、自分の記憶でも」
「自分のが一番消えやすい」
蛍は手を下ろした。目が赤い。泣いていたわけではないだろうが、長く手で圧迫されて血が充血しているのかもしれない。透はその目を見つめた。
「お前が廊下で立ちすくんでいたのは、どのくらいの時間だ」
「わからない。記憶が消えた後のことは——気づいたら自分の部屋にいた。何があったかも、どうやって戻ったかも、何も残ってない。翌朝、三島さんが死んでいたと知って——俺が、何かしたのかと思った」
声が震えた。初めて聞く、蛍の震える声。
「俺が消したのかもしれないと思った。三島さんの記憶を。または三島さん自身を。俺には確かめる術がない。自分が何をしたか、何もわからないから」
それが、この少年が黙り続けた理由だった。証言できなかったのではない。証言すべき記憶が、自分の中に存在しなかったのだ。そして空白は、最も恐ろしい想像を育てる。
透は立ち上がり、蛍の傍らに膝をついた。目線を合わせる。蛍は驚いたように透を見た。
「お前が三島さんを殺したわけじゃない」
「でも——」
「三島さんが誰かと話していた。その声を聞いた者が、霧積館にいる。それが全てだ。お前は何もしていない。能力が暴走したのは、お前のせいじゃない」
蛍は長い間、透の顔を見ていた。感情を読むのが難しい瞳だが、今はその奥に何かが揺れているのが見える。信じていいのかどうか、測っているようだった。子供が深い水の前で足を止めるような、あの顔だ。
「……三島さんが話してた相手の声は」
蛍がようやく言った。
「男か女かも、わからないのか」
「低かった。でも——それだけじゃ」
透はゆっくりと頷いた。低い声。それだけが手がかりだ。霧積館に暮らす者のうち、男性は複数いる。だが——何かが、透の中で引っかかった。三島と深夜に話し込むような関係にあった者。閉じた扉の向こうで、誰にも聞かれまいとするように声をひそめた者。
富樫礼子の書き留めた証言録が、頭の中で頁をめくる。透が吸収した十三人分の記憶の断片が、静かに再配列される。
そのとき——一つの声が、耳の奥で蘇った。
透は息を飲んだ。
それは三島の記憶だった。彼の中に宿っている、三島が生前に経験した何かの欠片。その中に、声があった。低く、穏やかで、どこか疲れたような声。透はその声を知っている。確かに知っている。
しかしその声の持ち主の顔を、記憶の中で確かめようとした瞬間——霧のように、像が揺れた。
(誰だ)
蛍が自分の記憶を消してしまったように、透の中の三島の記憶もまた、核心の部分だけが白く焼けている。まるで最初からそこに何もなかったかのように。
「どうした」
蛍が静かに問う。
「……いや」
透は首を振った。今は言えない。言葉にする前に確かめなければならないことがある。
立ち上がり、部屋を出る前に振り返ると、蛍は再び膝を抱えていた。しかし先ほどとは違う。少しだけ——本当にわずかだけ——その肩が、軽くなったように見えた。
「ありがとう、話してくれて」
透が言うと、蛍は答えなかった。ただ、かすかに瞼を伏せた。それが彼なりの返答だと、透にはわかった。
廊下に出ると、霧積館は静まり返っていた。深夜の沈黙の中で、透はその声を記憶の底からもう一度引き上げようとした。低く、穏やかで、疲れた声。
その声は、誰かに似ていた。
透がずっと信頼してきた、誰かに。