朝の霧は、いつもより濃かった。

 窓の外、霧積館を取り巻く白い闇は、建物ごと世界から切り離そうとするかのように壁面を這い上がり、硝子を濡らしていた。透はその窓を背に椅子へ腰を下ろしたまま、夜明けを迎えた。眠れなかったのは蛍の言葉のせいだけではない。輪郭だけが残る、という言葉が繰り返し脳裏を過ぎるたびに、三島の記憶がまるで自分のものであるかのような親密さで胸の奥から滲み出てくるのだった。

 消せる。

 だが霞は「返して」と言った。

 透は目を閉じ、薄い瞼の裏で二つの言葉を並べた。どちらが正しいのかではなく、どちらもある種の真実を孕んでいることが、彼をこれほど追い詰めるのだと思った。

    *

 証言の場は、今回も記録室と呼ばれる小部屋に設けられた。南向きの小窓があるはずなのに、霧のせいで外光はほとんど届かず、蛍光灯が白々しい光を卓上に落としている。富樫礼子は既に着席し、筆記具を手の傍に揃えていた。

 春日陰と春日陽の双子が入ってきたのは、約束の時刻より五分遅かった。

 陰が先で、陽が後。いつもその順番だと透は気づいていた。陰のほうが物事を決め、陽がそれに従う。ところが今日は違った。部屋に入った瞬間、陽が先に口を開いた。

「先に謝ります」

 透は顔を上げた。礼子の手が止まる。

「矛盾していたことは分かってます。私たちの証言が、食い違っていたことも」

 陽の声には、普段の柔らかさが剥がれていた。その下から顔を出したのは、長い間抱えていた何かを手放す直前の、乾いた緊張だった。陰はその隣で、膝の上に両手を重ね、視線を卓上の一点に固定している。

「陽」と礼子が静かに促した。「最初から話してもらえる?」

    *

 事件の夜、陽は眠れなかった。

 それ自体は珍しいことではない。私たちは夜になると互いの夢の残像を受け取ることがある、と陽は言った。双子の記憶共有は意図してするものではなく、就寝中に滲み出すように起こる。だからこそ眠りが浅い夜は、現実と夢と、姉から流れ込む映像とが混ざり合って、どこまでが自分かが分からなくなる。

「あの夜、私は廊下に出ました」

 陽の声が一段低くなった。

「三時頃だと思います。水を飲もうとして、部屋を出たとき」

 透の体がわずかに固まった。

「廊下の突き当たりに、誰かいた。霧がガラス窓の向こうに見えていて、室内灯が最低限しか点いていなかったから、最初は影だと思った。でも違いました」

「誰だったの」礼子が尋ねた。

「蛍くん、です」

 沈黙が部屋を満たした。透は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。

「確かなの?」

「はい。彼の白い髪は暗がりでもよく目立ちます。それに、廊下に立つ姿勢――あの子の立ち方を、私は間違えない」

 礼子の筆が動いた。紙の上を滑る音だけが、しばらく部屋に響いた。

    *

 問題は、そこからだった。

 陰が口を開いたのは、姉の証言が一段落したあとだった。

「私は翌朝、陽からそれを聞かされるまで、知らなかった」

 透は少し間を置いてから、意味を飲み込んだ。

「共有されなかった、ということ?」

「そうです」

 陰の声は相変わらず平板だったが、その平板さの中に、透は細い亀裂を聞いた。抑えようとして、抑えきれていない何かが、確かにあった。

「私たちの記憶の共有は、自動的に起こります。就寝中だけでなく、強い感情を伴う体験は、起きているときでも伝わることがある。陽があの夜見たものが私に届かなかったのは、生まれてから一度もなかったことです」

「一度も」と透は繰り返した。

「一度も。私たちはずっとそうして生きてきた。だから初めは、陽の勘違いだと思いました。夢を見たんじゃないかと。でも陽は嘘をつかない」

 陽が小さく頷いた。目に光が揺れている。

「それに、廊下の床に残っていたんです」陰が続けた。「翌朝、私が確認したとき。陽が見たあたりの床に、靴の水滴の跡が。霧の夜に外を歩いてきたか、濡れた窓の桟に近づいた誰かの痕跡です」

 礼子の手が一瞬止まり、また動き出した。透は二人の顔を交互に見た。

「あなたたちは、その記憶が伝わらなかった理由を、蛍の能力だと考えている?」

「他に説明がつきません」陰は答えた。「記憶の消去が、共有の経路を断ったのだとすれば、辻褄が合います。陽があの瞬間に見たものを、消去能力が選んで遮断した。あるいは、陽自身の記憶から一部が欠けていて、それが共有されなかった」

「私の記憶は欠けていない」陽が即座に言った。「見たものははっきりしています。ただ、陰に届かなかった」

 二人の言葉は互いを補い、互いを補強していた。透にはそれが、長い時間をかけて積み上げられた確信のように聞こえた。

    *

 証言が終わったあと、双子はすぐに部屋を出た。陰が先で、陽が後。今度はまた元の順番に戻っていた。

 残った透と礼子は、しばらく黙っていた。蛍光灯の音が、微かに耳の奥で鳴っている。

「礼子さん」透が先に言った。「これで、蛍が廊下にいたことは、ほぼ確定した」

「証言上は」と礼子は慎重に返した。「あくまで陽の目撃です。それと、消去能力が共有を阻害できるかどうかは、まだ誰も確かめていない」

「でも」

「でも」礼子は繰り返し、ペンを置いた。「蛍への疑惑は、もう抑えきれなくなった、ということは確かです」

 透は頷かなかった。頷けなかった、というほうが正確だった。

 昨夜の蛍の顔が浮かぶ。無感情に見えるあの表情の奥で、彼は何を抱えていたのか。自分の過去を根こそぎ奪われたと言った。消去できるということは、消去される側の痛みも知っている、ということではないか。

 それでも。

 透は目を閉じた。三島の記憶が、またじわりと滲み出してくる。事件の夜、廊下に誰かがいた。三島の視界に映ったかもしれない、あの白い影。それは三島自身の記憶の中に、もしかしたら残っているのかもしれない。だが透の中で三島の記憶は、霧のように輪郭が曖昧で、確かな形を結ばない。

「透さん」

 礼子が静かに呼んだ。

「顔色が悪い」

「眠れなかったから」

「昨夜、蛍くんが来たんですね」

 透は目を開けた。礼子はこちらを見ていた。責めているのではない、ただ知っている、という目だった。

「あなたが断ったことは分かります」礼子は言った。「それでいいと思う」

「本当に?」

「本当に」

 だが礼子の声には、どこか翳りがあった。透はそれを問い質さなかった。礼子が何かを知っていて、何かを書き留めていない可能性を、今初めて真正面から意識しながら。

    *

 廊下に出ると、霧が窓ガラスをより白く染めていた。透は一人でその廊下を歩いた。突き当たりまで行き、陽が立ったであろう場所に足を止める。

 床を見た。

 もちろん、もう何日も経っている。水滴の跡など残っているはずがない。

 それでも透は、そこに立ち尽くした。蛍がここにいたとしたら、何を見ていたのか。三島の部屋のある方角を向いていたのか。それとも、全く別のものを。

 冷たい空気の中で、透の耳の奥で何かが鳴った。三島の声ではない。もっと若い、もっと乾いた、声。

――輪郭だけが残る。

 蛍の言葉だった。

 消えた記憶の輪郭。その輪郭の形が、何かを語ろうとしている気がした。透はそれを捕まえようとして、指の間から砂のように零れ落ちていくのを感じた。

 霧の向こうで、どこか遠く、鳥が一声鳴いた。

 透は踵を返し、歩き出した。次に話すべき相手の名前が、すでに決まっていた。蛍だ。今度は透のほうから扉を叩く番だった。あの少年が廊下で何をしていたのかを、直接問い質す覚悟と、そしてもう一つの問いを胸に携えて。

 お前の消した記憶の輪郭に、三島の顔はあるか、と。

霧の中の十四番目の証人

32

第十の証言――双子の真実

朧月 汐音

2026-06-14

前の話
第32話 第十の証言――双子の真実 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版