霧は、建物の中にまで入り込もうとしていた。
正面玄関の扉が閉まった瞬間、外の白い気配が途切れ、透はようやく自分の輪郭を取り戻したような気がした。しかしそれは錯覚に過ぎなかった。廊下を満たす空気には、すでに見知らぬ誰かの体温と記憶が溶け込んでいて、透の皮膚はそれをひっそりと吸い始めていた。
「ようこそ、霧積館へ」
院長の碓氷玄は、透を玄関ホールで待ち受けていた。白衣の上に手編みらしいカーディガンを羽織り、年齢の割には姿勢が良く、手にした杖が装飾であるか実用であるか、判じかねる佇まいだった。七十に近いはずの顔には、皺の一本一本に意志が宿っているような彫りの深さがあった。
「碓氷先生でいらっしゃいますか」
「そうです。あなたが瀬川透くんですね。三田村先生からの紹介状は拝読しました」老医師は眼鏡の奥で目を細め、透を頭のてっぺんから靴先まで、ゆっくりと眺めた。「疲れているでしょう。荷物を部屋に置く前に、少し館内をご案内しましょうか。ここの構造に慣れるのに、少し時間がかかりますからね」
廊下に立っていた無表情な女性はすでにいなかった。「また、増えた」という呟きだけが、空気の折り目に挟まったまま残っていた。
碓氷は杖をつかずに歩いた。廊下を進みながら、淡々と、しかし丁寧に霧積館の説明をした。
「この建物は、昭和三十年代に私の師が建てたものです。当初は結核の療養施設でしたが、私が引き継いだ際に、少し違う目的のための場所に改めました」
「少し違う、というのは」
「あなたのような方たちのための場所、ということです」碓氷は振り返らずに言った。「世間には理解されにくい体質を持つ方々が、安心して過ごせる場所。それだけです」
廊下は緩やかに弧を描いていた。透は気づくのが遅れたが、この廊下は建物の中央を軸として、環状に続いているのだった。右手の外壁には等間隔に窓が並び、その向こうには霧しかない。左手の内壁には、等間隔に扉が並んでいた。
透は思わず数えた。
一、二、三——。
「十三室あります」
碓氷が先に言った。透が数えていることを見透かしていたか、あるいは誰もが同じことをするのを知っていたかのように。
「患者さんが十三人、ということですか」
「現在は十二人です。あなたが十三人目になる。それぞれの扉には番号ではなく、お名前を書いた小さな札を下げています。あなたのお部屋は十三番目、一番奥です」
廊下を歩きながら、透は扉の前を通り過ぎるたびに、微かな感触を覚えた。熱でも冷気でもない、もっと曖昧なもの——誰かの時間が滲み出てくるような感覚。透の体質のせいで、記憶の濃い人間の近くでは常にそうなる。ここでは、扉一枚隔てた向こうにそれが十二個もある。
思わず足が遅くなった。
「慣れます」碓氷は前を向いたまま言った。「最初の一週間は、皆さんそういう顔をして歩きます。でも、ここにいる方たちは皆、同じような体質ですから。お互いの気配には、次第に輪郭ができてくる。自分のものとそうでないものが、少しずつ区別できるようになってくる」
透はその言葉に、砂漠の中で水音を聞いたような感覚を覚えた。「区別できるようになる」——それは透が最も欲しかった言葉かもしれなかった。同時に、簡単に信じてはいけないとも思った。
案内は続いた。廊下の環の内側には、中庭があった。霧の中でも辛うじて形が見える庭には、低い石垣と、枯れかけた薔薇の蔓が絡まった格子があった。
「冬はこういう景色ですが、春になると少し違って見えますよ」
透には、春までここにいる自分が想像できなかった。
夕刻、食事の前に、碓氷は透を共用ダイニングへ連れていった。
ダイニングは廊下の環から少し突き出した形で設えられており、窓の三面に霧が張りつき、室内の照明が霞の中でぼんやりと反射していた。長いテーブルに椅子が並び、すでに何人かが席についていた。
透が入室すると、空気が微かに変わった。
視線が集まる。あからさまな視線もあれば、伏し目のまま気配を探るような視線もある。透は自分の皮膚が、十二個の記憶の輪郭を同時に探り始めるのを感じた。意識的にそうしているわけではない。体が勝手にそうする。透の「病」は、そういうものだった。
「皆さん、今日から新しい方が加わります。瀬川透さんです」
碓氷の紹介に、何人かが軽く会釈をした。透も頭を下げた。
席はテーブルの端の方に用意されていた。隣の席が空いており、少し安堵して透は椅子を引いた。
「座っていいか」
声がして透は顔を上げた。
いつ近づいてきたのかわからなかった。透と同じくらいの背丈の、少年と呼ぶには少し齢を重ねたような、しかし青年と言うには線が細すぎる人物が隣に立っていた。黒い前髪が眉の上で揃えられ、その下の瞳は、どこか遠い場所を見るような色をしていた。
「どうぞ」
少年は無言で座り、透を一度だけ見てから、視線を自分の手元に落とした。それきり何も言わなかった。
夕食が運ばれてきた。湯気の立つシチューと、厚切りのパン。質素だが温かかった。北アルプスの山中の夜は冷え込みが早く、透は山道で凍えた体が少しずつ溶けていくのを感じた。
テーブルの中ほどに、あの女性が座っていた。廊下で「また、増えた」と言った、無表情の女性。食事の間、彼女は誰とも会話をせず、ただスプーンを動かしていた。しかし透は何度か、彼女の視線が自分に向けられるのに気づいた。感情の読めない、静かな観察の目。透がそちらを見ると、彼女は視線を外すでも続けるでもなく、ただそのまま透を見ていた。
碓氷は食卓の上座に座り、穏やかに食事をとりながら、時折誰かに言葉をかけていた。その様子は、まさしく家長のようでもあり、研究者が被験体を眺めているようにも見えた。透はその二つの印象が、同時に成立することを不思議だと思いながら、シチューを口に運んだ。
食後、部屋に案内されながら、透は廊下の突き当たりに気づいた。
十三番目の扉の前で、碓氷が鍵を渡しながら言った。
「ゆっくり休んでください。ここでは無理に何かをする必要はありません。記憶は、急かすと歪みます」
扉に嵌められた小さな木の札には、透の名前が書かれていた。整った、しかし古い字体だった。まるで、ずいぶん前からそこに下げられていたかのような色褪せ方をしていた。
「先生」透は思わず声をかけた。「この札、いつ作られたんですか」
碓氷は一瞬、動きを止めた。
それは本当に僅かな間だった。呼吸一つ分にも満たない時間。しかし透はそれを、はっきりと見た。
「昨日です。あなたの入館が決まってから」老医師はすぐに微笑んだ。「字が古めかしく見えますか。私の書き癖でしてね、若い頃に師匠に厳しく仕込まれましたから」
透は頷き、部屋に入った。
扉が閉まると、霧積館の夜が、静かに押し寄せてきた。
窓の外は完全な白だった。窓枠の向こうに山も木も空もなく、ただ霧だけがある。透はベッドに腰掛け、両手を膝の上に置いた。どこかの誰かの記憶の断片が、まだ皮膚の下を泳いでいた。食卓で感じ取った十二人分の気配が、ゆっくりと透の中に沈殿していく。
その中に、一つだけ、妙に鮮明な感触があった。
食卓で隣に座っていた少年のものではなかった。もっと静かな、もっと古い、傷のように固まった記憶の塊。それがどこから来たのかがわからなかった。十二人の誰かから滲み出たのか、あるいは——この建物そのものに染み込んでいるのか。
記憶は映像ではなく、感情の重さとして透に届く。その感触は、後悔というには重く、懺悔というには静かすぎた。
透は目を閉じた。
廊下には、十三の扉が並んでいる。そして透のいる十三番目の扉の向かい、外壁の窓の下に、何かが彫り込まれていることに気づいたのは、すでに部屋の中に入った後だった。窓枠の端、透が通り過ぎる時に一瞬だけ見えた文字。
明日の朝、確かめなければならない。そう思いながら、透は霧積館の最初の夜に沈んでいった。