夜の廊下は霧を孕んでいた。

 霧積館の建物は古く、隙間風が壁板の節目から染み込んでくる。透は自室に戻るつもりで階段を降りかけたところで、暗がりの中に人の気配を感じた。立ち止まり、息を詰める。

 「瀬川さん」

 低く、しかし確かに名を呼ぶ声があった。富樫礼子だった。彼女は廊下の角に立ち、手に小さなランプを持っていた。オレンジ色の光が彼女の顔の半分だけを照らし、もう半分を闇に沈めていた。

 「少しよろしいですか。誰にも聞かれたくない話があります」

 礼子は透を食堂の脇にある小さな物置部屋へ連れて行った。棚には古い記録帳と薬品の空き瓶が並んでいる。かつて何かを整理するための部屋だったのだろう、長机が一脚だけ置かれ、埃の匂いが鼻をついた。礼子はドアを丁寧に閉め、ランプを机の上に置いた。

 「これを見てください」

 彼女がコートの内側から取り出したのは、折り畳まれた書類の写しだった。透は手に取り、ランプの明かりに翳す。

 療養院の管理書類の一種らしかった。院長・碓氷玄の署名と日付が印刷欄の下に記されている。透は日付を二度読んだ。三島が死亡したとされる夜より、三日前の日付だった。書類の種類は——死亡時の身元引受と保険金受取に関する同意書、その準備書面。

 喉の奥が乾く感覚があった。

 「これは……」

 「三島さんの死亡に関する書類です。死亡前にすでに署名されています。私が院長の執務室の書棚の奥から見つけました。正確には、掃除のお手伝いをしていた際に偶然に」

 礼子の声は静かだった。抑揚が少なく、それがかえって透の神経を緊張させた。

 「偶然に」と透は繰り返した。

 「ええ」

 「……こういうことは、手続き上あり得るんですか。事前に用意していることが」

 礼子はしばらく黙った。手を膝の上で組み、ランプの炎を見つめている。

 「私は記録係ですから、書類の形式についてはある程度知っています。この種の書面は通常、死亡確認後に作成されます。家族や保証人の署名は事前に得ることもありますが、院長が施設管理者として事前に署名するのは——あり得ないことではないかもしれない。でも、自然ではない」

 「自然ではない」

 「少なくとも、三島さんの状態がすでに余命僅かと診断されていたのでなければ」

 透は書類を机に戻した。紙の感触が指先に残っている。三島の死は自死の可能性が濃くなっていた。田辺澄子の証言が耳に甦る。赦しを乞う夢、覚悟の静けさ。では碓氷院長は何を知っていたのか。三島が自ら死を選ぶことを、事前に知っていたのか。

 あるいは——知っていた以上のことを。

 「なぜ私に話すんですか」

 透は礼子を見た。彼女は透の視線を受けて、少しだけ顔を上げた。

 「私は普通の人間です」と礼子は言った。「能力を持たない、ただの人間。あなたたちのように他者の記憶に触れることも、記憶を渡すことも、消すこともできない。それはつまり——私の記憶は誰にも確認できないということです」

 「……」

 「霞さんは記憶を渡せます。でも私の中にある記憶を読み取ることはできない。道上くんは記憶を消せます。でも彼は今、あなたの敵かもしれない。あなたは他者の記憶を吸収する。でも私の記憶は普通の人間の記憶ですから、あなたには入ってこない」

 礼子は静かに続けた。

 「つまり私が今あなたに話していることは、私が話したいと思って話していること以外の何でもない。誰も検証できない。誰も確かめられない。——それがこの話の弱点であり、この話の意味でもあります」

 透は黙って彼女を見続けた。ランプの炎が揺れた。隙間風だった。

 礼子の言葉は奇妙なほど正確だった。透はこれまで、能力者たちの証言を聞くたびに、その記憶の断片が自分の中へ滲み込んでくる感覚と戦ってきた。田辺澄子の夢の余韻も、夏目霞の言葉の重さも、まだ透の中に溶け残っている。しかし礼子の言葉は——透の内側に何も落としてこない。それが逆に、ひどく輪郭の鮮明な言葉として届いた。

 信頼できるということと、確認できないということは、まるで違う。

 「礼子さん」と透はゆっくり言った。「あなたが普通の人間だとおっしゃるのはわかります。だからこそ聞きます。あなたはなぜこれを見つけたとき、院長に直接話さなかったんですか」

 礼子の視線がわずかに揺れた。

 「院長が怖かったから、ですか。あるいは——院長が関与していると確信していたから」

 「……どちらとも言えます」

 「それは答えになっていない」

 礼子は少しの間、口を閉じた。ランプの炎が再び揺れる。

 「正直に言います」と彼女はついに言った。「私は長い間、この館のすべてを記録してきました。誰の証言も、誰の証拠も、等しく書き留めてきた。公平であろうとしてきた。でも——」

 声が細くなった。

 「でも私は、三島さんのことが好きでした。患者としてではなく。一人の人間として。彼がここに来た理由も、彼が何を恐れていたかも、少しだけ知っていた気がしていた。だから彼の死に誰かの悪意が絡んでいるなら、それを明らかにしたい」

 「それが碓氷院長だと思っている」

 「疑っています。確信はない」

 透は書類を再び手に取った。紙の白さが目に刺さるようだった。

 信じたい、と透は思った。礼子の話には筋が通っている。書類は物証だ。彼女の感情にも本物の重さがある。しかし同時に、もう一つの声が透の中で言っていた。

 礼子は確認できない。

 彼女の記憶には誰も触れられない。それはつまり、彼女が嘘をついていても、誰も見抜けないということだ。礼子自身がそれを言った。なぜ言ったのか。正直さの表れか。あるいは先手を打ったのか。

 「これを私に見せたことを、誰かに話しますか」

 礼子が静かに聞いた。

 透は書類を折り畳み、礼子に返した。

 「今は話しません」

 「今は、というのは」

 「まだわからないから」

 礼子はかすかに頷いた。書類を受け取り、再びコートの内側へしまう。立ち上がりかけて、ふと振り返った。

 「一つだけ。私は三島さんから、死ぬ前に一枚の紙を預かりました。彼は言いました。『もし何かあれば、一番信頼できる人に渡してほしい』と。私はずっと誰が一番信頼できるかを考えていた。答えが出なかった。でも——」

 礼子はランプを持ち上げ、ドアに手をかけた。

 「あなたは三島さんの記憶を持っている。それだけが、私が今日ここであなたに話した理由です」

 ドアが開いた。霧の冷気が流れ込んでくる。礼子は廊下へ出て行き、ランプの光が遠ざかった。

 透は暗い物置部屋に一人残された。

 三島から礼子へ渡された一枚の紙。透はまだそれを見ていない。礼子は今夜それを見せなかった。なぜか。試しているのか。それとも、まだ渡す準備ができていないのか。

 透は自分の掌を見た。他者の記憶を引き寄せるこの手が、礼子の記憶だけには届かない。闇の中で、透は初めて、自分の能力の空白を——穴のように感じた。

 信じることと、確かめることの間にある深い溝に、透は静かに立っていた。

霧の中の十四番目の証人

26

礼子の疑惑

朧月 汐音

2026-06-08

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第26話 礼子の疑惑 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版