霧は朝から動かなかった。
窓の外で白い塊が滞留している。風もなく、光もなく、霧積館の廊下は昼でも薄暗い。透は記録室の隅に置かれた長椅子に腰を下ろしたまま、自分の手のひらをぼんやりと眺めていた。指の節に残る感覚——あれは自分が転んだときのものか、三島の子供時代の、砂利で擦れた掌の痛みか——もう判然としなかった。
霞が施してくれた訓練の効果は、半日も経つと薄れてきた。境界が、また少しずつ溶け始めている。
「透さん」
富樫礼子が戸口から顔を覗かせた。帳面を胸に抱え、眼鏡の奥に心配そうな色を滲ませている。彼女の声には、余分なものが何もない。その平坦さが今日は少しありがたかった。
「田辺さんがお話しすると言っています。今日は調子が良いそうで」
透は立ち上がった。膝が重かった。
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田辺澄子は、療養院の中でも一段奥まった個室に暮らしていた。廊下の突き当たり、他の患者の部屋より天井が低く、窓が小さい。自ら希望してそこへ移ったのだと礼子が教えてくれた。人の夢が届きにくい場所を選んだのだ、と。
ノックをすると、しばらく間があって「どうぞ」と声がした。くぐもった、低い声だった。
室内は薄暗く、カーテンが半分引かれていた。ベッドの上に小柄な女性が座っている。四十代か、五十代か、年齢の判断がつきにくい顔立ちをしていた。目の下に深い影があり、肌には透明感がなく、それでも視線だけは奇妙に澄んでいた。眠れない者の目だ、と透は思った。疲労と覚醒が同時に棲んでいる目。
「瀬川透さん、ね」
田辺澄子は、透の顔を確かめるように見た。
「あなたの噂は聞いてるわ。三島さんの記憶を引き取った人」
「引き取ったというより、流れ込んできた、という方が近いです」
「そう」彼女は少し間を置いた。「私の能力もそれに似てるかもしれない。望まないのに、届いてしまう」
礼子が傍らに椅子を引き、帳面を開いた。田辺澄子はその様子を一瞥してから、窓の外の霧に目を移した。
「三島さんが死ぬ前の夜のこと、話します」
声に力は乗っていなかった。それでも言葉は静かに、確かに部屋を満たしていった。
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田辺澄子の能力は、眠っている人の「夢の記憶」を受け取ることだった。
夢そのものではない。夢を見ている最中の、その人の感情の残像——目が覚めた後に言語化できない部分、朝になっても胸の奥に澱のように残る何か——それを、彼女は眠れずにいる間じゅう、近くにいる者から受信し続ける。
「三島さんの部屋は、ここから廊下を二つ挟んだところだった。普段はそんなに届かないんだけど、あの夜は違った。強い夢を見てたのね、三島さんは。怖いくらい、鮮明に」
透は黙って聞いた。礼子のペンが動いている音だけが、部屋に小さく響いた。
「夢の中の三島さんはね、海にいたわ。でも不思議な海で、波がない。鏡みたいに平らな水面が、どこまでも続いてた。空の色は覚えていない。色がなかったのかもしれない」
澄子は手を膝の上で重ねた。薄い手だった。
「三島さんはその海の前に立って、誰かを待ってたの。ずっと待ってた。そこに人が来た。姿はよく見えなかったけれど、三島さんが知っている人だとわかった。夢の中では、そういうことがわかるでしょう」
「はい」透は思わず答えた。
「三島さんはその人に向かって、何度も頭を下げた。泣いてた。夢の中で泣くって、大変なことよ。本当に苦しいときだけ、そうなるから」
透の胸の内側で、何かが揺れた。
「三島さんは何を言っていましたか」礼子が静かに尋ねた。
「言葉は聞こえない。私の能力は感情だけを受け取るものだから。でもね」澄子は一呼吸置いた。「意味は、伝わってくるの。言葉じゃなくて、気持ちとして。三島さんがその人に求めていたのは——」
彼女はそこで目を伏せた。
「赦しだった。自分がした何かを、赦してほしいと、ただ、それだけを、繰り返してた」
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沈黙が落ちた。
霧積館の廊下のどこかで、遠く、扉が閉まる音がした。それだけが現実の音で、あとはすべてが夢の中の出来事のように感じられた。
「三島さんが誰かを傷つけた、ということでしょうか」透は聞いた。声が少し掠れた。
「わからない。でも——」澄子は顔を上げた。「赦しを乞う夢を見る人はね、自分がやったことを、ちゃんと知ってるのよ。忘れていない。忘れたいのに、忘れられないから、夢の中でもずっと謝り続けてる」
透は三島の記憶を探ろうとして、すぐに止めた。霞の声が耳の奥に蘇った。——まだ見ていないものがある。
その「見ていないもの」が、この夢の中にあるのかもしれなかった。三島は誰かに対して何かをした。被害者ではなく、加害者として。それを誰にも言えず、夜ごと海の前に立って、来るはずのない赦しを待ち続けていた。
「田辺さん」透は言った。「その夢を受け取って、あなたはどう感じましたか」
澄子は少しだけ、表情を動かした。驚いたようにも見えた。自分の感情を聞かれると思っていなかったのかもしれない。
「同情したわ、最初は。可哀想だと思った。あんなに苦しそうに謝っているんだもの」
「最初は、ということは」
「だって」彼女は静かに言った。「謝るべき相手が、いるということでしょう。三島さんに傷つけられた誰かが、どこかにいる。その人のことを、私は知らなかった。名前も、顔も、何をされたのかも。ただ三島さんの苦しさだけが伝わってきて——」
澄子は目を細めた。
「それだけを受け取って同情するのは、何か間違っているような気がして、朝になっても気持ちが落ち着かなかった」
礼子がペンを止めた。部屋の空気が少し変わった。透にはそれが感じられた。
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証言は、そこで一区切りついた。田辺澄子は疲れた様子を見せ始め、礼子が「今日はここまでにしましょう」と切り上げた。透は礼を言って立ち上がりながら、もう一度澄子の顔を見た。
「あの夜、他に何か感じたことはありましたか。どんな些細なことでも」
澄子は少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「夢の終わり頃、三島さんの感情が急に変わったの。それまではずっと苦しくて、悲しくて——でも最後の方だけ、違う感触になった」
「違う、というのは」
「静かだった」澄子は言った。「苦しさじゃなくて、静けさ。決めた人の静けさ、とでもいうのかしら。何かを決めた人が持つ、あの、凪いだような感じ」
透は息を呑んだ。
それは——覚悟の静けさだ。
田辺澄子の目が、透をまっすぐに見た。眠れない者の目が、かすかに揺れた。
「あの夜のうちに、気づいてあげられればよかった、と今でも思う。でも私には、夢を受け取ることしかできないから」
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廊下に出ると、霧積館の空気がひんやりと頬を撫でた。礼子が帳面を閉じながら、小声で言った。
「三島さんが誰かを傷つけていたとすれば、話が変わりますね」
「変わる」透は頷いた。「被害者だと思っていた人が——」
言葉は途中で止まった。
三島の記憶が、また水面のように揺れた。その奥に、まだ沈んでいる何かがある。澄みきらない泥のような部分が、水底で動いている。
透はそれを見つめながら、一つの問いが形になるのを感じた。
三島は何をしたのか。誰に。なぜそれが、この療養院での死につながったのか。
十四番目の証人は、まだ全部を語っていない。
霧が、廊下の奥から静かに迫ってきた。