霧は夜明けになっても晴れなかった。
窓の外は白く塗り潰されたままで、廊下の端から差し込む光もどこか水底のように濁っている。礼子は記録室の机に向かい、開いたままの証言録を眺めていた。三島の名前、碓氷の名前、そして道上蛍の名前。最後の一行には、まだ何も書かれていない。
蛍は昨夜から姿を消していた。食堂にも、中庭の石段にも。礼子が扉を叩くと、短い沈黙の後に「どうぞ」という声が返ってきた。押し殺したような、感情の形を持たない声だった。
部屋の中は薄暗かった。カーテンが半分引かれ、窓から入る霧の白さだけが空間を仄かに照らしている。蛍はベッドの端に腰を下ろし、膝の上に両手を置いて礼子を待っていた。十六か十七、そのくらいの年頃だろうか。顔立ちは整っているのに、表情が乏しく、まるで彫刻が座っているように見える。
「証言を聞かせてほしいの」
礼子はいつも通り、穏やかに切り出した。証言録を抱え、万年筆の蓋を外す。蛍の目が一瞬だけ動いた。
「言えることがありません」
「あなたは三島さんをよく知っていたはずよ。一年以上、同じ館で暮らしてきたんだもの」
「言えることがない、と言いました」
語尾が切れている。拒絶というより、何かを封じているような言い方だと礼子は感じた。机の縁をゆっくり指でなぞりながら、別の角度から問いかける。
「三島さんが亡くなった夜、あなたはどこにいた?」
「自分の部屋です」
「それだけ?」
「それだけです」
沈黙が落ちた。礼子は急がなかった。こういう沈黙に慌てることは、証言録を書き始めた最初の年に学んだことだ。人は空白を埋めようとする。誰でも、いつかは。
だが蛍は違った。沈黙を恐れていない。むしろその中に棲んでいるように見えた。礼子は万年筆の先を紙に当てたまま、蛍の横顔を観察した。窓の光が頬骨の稜線を浮かび上がらせ、少年の影が壁に伸びている。
「道上くん」
礼子は珍しく名前で呼んだ。蛍がわずかに顎を上げる。
「私はここにいる全員の証言を記録する役目を負っている。あなたが拒むことは、それ自体がひとつの記録になる。何も書かれないのではなく、『語らなかった』という事実が残るのよ」
「残せばいい」
「あなたにとって、それで構わないの?」
また沈黙。今度はほんの少し、質が違った。礼子にはわかった。何かが蛍の内側で揺れている。
「言えないんじゃない」
蛍の声は低く、かつ平坦だった。感情が乗っていないのではなく、感情を運ぶ器そのものが欠けているような声。
「覚えていないんだ」
礼子の手が止まった。
「覚えていない、って……三島さんが亡くなった夜のことを?」
「その夜だけじゃない。もっと前から。あの人との記憶が、ところどころ空白になっている」
蛍は膝の上の手をぎゅっと握り締めた。礼子はそれを見て、初めてこの少年が何かと戦っているのだと理解した。
「三島さんのことを、どこまで覚えている?」
「顔は覚えている。声も。でも、いつ何を話したか、何を一緒にしたか。細部が、消えている」
「消えた、というのは……」
「消えたんです」
その言葉の重さに、礼子は息を呑んだ。能力者の言葉を、比喩として受け取ってはいけない。礼子が長年この館で学んだことのひとつだ。蛍の能力は「他者の記憶を消す」こと。それはよく知られていた。だが今、蛍は「自分の記憶が消えた」と言っている。
礼子はそれ以上問えなかった。
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廊下に出ると、透が壁に背を預けて立っていた。
「聞いていたの」と礼子が言うと、透は少し目を伏せた。「盗み聞きじゃない。ここまで来て、声が聞こえてしまっただけです」
礼子は何も言わなかった。透の顔色が悪い。昨夜から、この青年はどこかが変わった。眼の奥に、別の人間の影が宿り始めているようで、礼子は密かに心配していた。
「蛍くんの記憶が消えている」
透は静かに、しかし確信を持った声で言った。
「そうね」
「三島さんとの記憶が、細部から」
「ええ」
透は壁から背を離し、窓の外の霧を見た。礼子にはわかった。この青年は今、ひとつの仮説を手の中で転がしている。口に出すことをためらっている。なぜなら、それが正しければ、誰かを深く傷つけることになるから。
「透さん」と礼子は言った。「思ったことを言って」
透はしばらく黙っていた。霧が窓ガラスに薄く結露して、線を引いている。
「蛍くんは、自分の記憶を自分で消したんだと思う」
礼子は胸の奥で何かが静かに沈む感覚を覚えた。
「それが……できるの? 他者ではなく、自分自身の」
「わからない。でも、できないとも言えない。能力というのは、自分自身に向けることだって……」
透は言いかけてやめた。三島の記憶が透の中に混じり込んでいることを、礼子は知っている。三島が何かを知っていたなら、透もそれを感じ取っているかもしれない。
「もし蛍くんが事件当夜に自分の記憶を消したとしたら」と透は続けた。「それは見たくないものを消したから、なのか。あるいは……」
「あるいは?」
透の声が、ひっそりと低くなった。
「見られたくないものを消したから、なのか」
廊下に、長い沈黙が降りた。
礼子は証言録の表紙を指先で押さえた。三島の死は事故か、病か、あるいは自ら選んだものか。その輪郭はまだ霧の中にある。だが今この瞬間、別の問いが生まれていた。蛍は何を見たのか。何をしたのか。そして何を、消したのか。
記憶を消す能力を持つ少年が、自らの記憶を失っている。それは罰なのか、逃避なのか、それとも誰かを庇うための選択だったのか。
透は何も言わずに廊下を歩いていった。その背中を見送りながら、礼子は証言録を開いた。
蛍の頁は白いままだ。しかし礼子はそこに、一行だけ書き記した。
――道上蛍は「覚えていない」と言った。
万年筆の先が紙から離れる。インクが乾く前に、礼子は目を閉じた。覚えていない、という言葉が頭の中で反響する。語れないのではない。消えてしまったのだ。
霧は、まだ晴れない。
そして霧積館のどこかで、道上蛍はひとり、空白の中に座っている。その空白が何の形をしていたか、もはや彼自身にもわからないまま。
透の足音が遠ざかっていく。あの青年の中では今、三島の声と自分の思考が入り混じっているはずだ。それでも透は問い続けている。真相へ向かって、あるいは真相から目を背けないために。
礼子は証言録を閉じた。
次の証言者の名前を、頭の中で静かに呼んだ。