三島の記憶は、霧の奥から滲むように現れる。
それは透が意図して手を伸ばすものではなく、まるで地の底から湧き出す地下水のように、静かに、しかし確実に、意識の隙間へ流れ込んでくるものだった。夜半を過ぎた頃、透は自室の窓辺に座り、消えかけたランプの明かりの中でじっとその流れに身を委ねていた。
最初に浮かんだのは、においだった。
消毒液と、古い木材と、何か甘ったるい薬品の混じり合ったにおい。霧積館のにおいに似ているが、もう少し鋭く、もう少し生々しい。それから光景が重なる。白い天井。頭上にある丸い照明器具。窓から差し込む光は弱く、外が曇っていることを知らせていた。
三島は若かった。
おそらく二十代の前半。今よりずっと細く、頬の肉が削げたような顔をしていた。白いシーツの敷かれたベッドに横たわり、左腕に管が繋がれている。三島の視線は天井に向けられていたが、その目に浮かぶのは恐怖でも怒りでもなく、ただひたすらな、疲れ果てた諦念だった。
そしてそこに、若い碓氷がいた。
髪はまだ黒く、背筋もまっすぐで、今の老いた姿からは想像のしにくい、鋭い眼光を持った中年の男だった。白衣のポケットに手帳を差し込み、三島のベッドの傍らに椅子を引いて座り、静かに何かを書き留めている。
「今日の夢は何を見ましたか」
碓氷の声は今より高く、感情の起伏が少なかった。問いというより、確認。記録のための音声。
三島は少しの間、黙っていた。それから掠れた声で答えた。
「また、あの子のことを」
碓氷は何も言わなかった。ただ手帳にペンを走らせた。
透はそこで息を呑んだ。三島の記憶の中に潜り込んでいる自分が、外側から見ているのではなく、三島そのものとして感じていた。ベッドの硬さ、管の重さ、碓氷の視線の冷たさ、それらがすべて自分の皮膚に届く感覚として押し寄せてきた。
「あの子」というのが誰なのか、透にはわからなかった。しかし三島にとってその名前は、刃物のように胸に刺さるものだということは、痛みとして伝わってきた。
記憶はさらに遡る。
別の日。別の部屋。三島は椅子に座らされ、前方に置かれた白いスクリーンを見つめていた。傍らに複数の研究者がいた。碓氷もその中にいた。
「集中してください。スクリーンの向こうにある人物の記憶を感知できますか」
三島は唇を噛んでいた。できます、と小さく答えた。その声には諦めが染みていた。
実験の内容が、断片的に透に伝わってくる。三島の能力は、記憶を「引き寄せる」ものではなく、「読む」ものだったのだと、透はそこで初めて理解した。隔てた壁の向こうにいる人物の記憶を、名前も顔も知らぬままに読み取ることができる。霧積館でその能力がどう呼ばれていたか、透は今も知らない。ただ三島はずっとそれを、隠すように生きてきたのだろうと思った。
碓氷は丁寧だった。三島を傷つけようとする意図は見えなかった。しかし丁寧さと優しさは違う。碓氷の関心は常に、三島そのものよりも三島の「能力」に向いていた。それが三島の目には、どれほど深く映っただろうか。
透は窓辺から立ち上がった。
夜の廊下は静かだった。霧積館に満ちる霧が、夜も窓ガラスの向こうで白く蠢いている。灯りの乏しい廊下を歩きながら、透は自分の手を見下ろした。今、この手はどこまで自分のものだろうか。三島の記憶を引き継いだこの体は、三島の感じた痛みをも引き継いでいる。
碓氷の部屋は館の東端にある。透はそこへ向かいながら、何を言うべきかを考えた。しかし言葉は浮かばなかった。ただ足が動いていた。
扉をノックすると、すぐに「どうぞ」という声が返ってきた。碓氷は眠っていなかった。
室内には書物と書類が積み上げられ、古い木の机の前に老人が座っていた。ランプの明かりに照らされた横顔は、穏やかで、疲れており、まるで昔から透の訪問を待っていたかのような静けさを持っていた。
「三島さんと、二十年前に会っていましたね」
透は入口に立ったまま言った。
碓氷はゆっくりと振り返った。皺の深い顔に、驚きはなかった。ただ微かに、唇の端が動いた。
「そうですね」
それだけだった。否定も、説明もなかった。
「三島さんは被験者だったんですか。あなたの研究の」
透の声は自分で思っていたよりも低く、震えがなかった。その落ち着きが逆に自分を怖くさせた。
碓氷は机の上の紙に目を落とし、しばらく何かを考えるように黙った。それからゆっくりと口を開いた。
「被験者、という言葉は、少し違います」
「では何と言えばいいんですか」
「……協力者、でしょうか」
透は息を吐いた。その言葉の滑らかさが、かえって胸に引っかかった。協力者。それが本当なら、なぜ三島はベッドの上でああも疲れ果てた顔をしていたのか。
「三島さんは自分から望んでそこにいたんですか」
碓氷はまた黙った。今度は少し長かった。
「望んで、いたかどうか」と老医師はやがて言った。「それは難しい問いです。人は複数の気持ちを同時に持てますから。三島さんも、来たくて来た部分と、来ざるを得なかった部分が、同時にあったのだと思います」
「それで免責されると思っているんですか」
透は自分の言葉に少し驚いた。しかし引っ込めなかった。
碓氷は初めて、表情らしいものを顔に浮かべた。悲しみではなく、困惑でもなく、それはどこか、遠い景色を眺めるときのような眼差しだった。
「免責など、求めていませんよ」
静かな声だった。それが嘘ではないと感じられることが、透にはかえって不気味だった。
「では何を求めていたんですか、あの頃。三島さんの能力を調べることで、何を手に入れようとしていたんですか」
碓氷は答えなかった。
ただ机の上に置かれた手を、ゆっくりと握りしめた。それだけだった。
透は更に問おうとして、やめた。老医師の口は固く閉じられ、その閉じ方は激しい拒絶ではなく、長い年月をかけて積み上げられた、静かで頑固な壁のようだった。問い詰めても崩れない類の沈黙だと、透は本能的に感じた。
「また話を聞かせてください」
そう言い残して部屋を出た。廊下に出ると、夜の冷気が肌に刺さった。
三島の記憶が、また揺れた。
碓氷に「また来週も来てください」と言われた三島が、廊下に出て、一人になった途端、壁に手をついてうずくまる場面が浮かんだ。泣いているのではなかった。ただ、重力に耐えられなくなったような崩れ方だった。
透は壁に手をついた。同じ姿勢で。
自分と三島の境界が、また薄くなっていく感覚があった。それは恐ろしかったが、同時に、三島のことをもっと知りたいという引力が、恐怖よりも強かった。
廊下の端に人影があった。
振り返ると、道上蛍が立っていた。暗がりの中で、少年の目だけが光っていた。何かを見ていた。透を。いや、透の中にある何かを。
「記憶が、溢れてますよ」
道上は低い声でそう言った。
透が何か答える間もなく、少年は音もなく闇の中に消えた。
残されたのは、霧と、三島の記憶と、碓氷の閉じた口の輪郭だけだった。