男の外套が、人混みの中に消えた。

 糸子は走った。泥濘んだ石畳を踏み、乾物屋の軒先に吊るされた干し魚の暖簾をくぐり、露天商の怒鳴り声をすり抜けた。糸台の市場は朝から活気に満ちていて、記憶布の切れ端を広げた屋台が隙間なく並んでいる。色とりどりの布が風に揺れるたび、誰かの過去がほんの一瞬だけ空気に滲んだ——遠い夏の匂い、誰かの笑い声のかたち、涙のひだ。糸子はそれらに足を取られながらも、継ぎ接ぎ外套の影を目で追い続けた。

 しかし男は、どこにもいなかった。

 立ち止まる。荒い息が白く散る。市場の中央に立てられた大きな縫い柱——何十もの記憶布を縒り合わせて固めた円柱——のそばで、糸子は初めて足を止めた。あの男はただの幻ではなかった、と確信している。追いかけた。走った。追いかけることだけが、今この瞬間の自分に許された唯一の「わかること」だったからだ。

 だというのに。

 「迷子?」

 声が降ってきた。

 振り返ると、縫い柱に背中を預けた少女がいた。年頃は糸子と変わらないかもしれないが、どこか掴みどころのない軽さがある。蜂蜜色の巻き毛が肩のあたりでやわらかく跳ねており、首には大小さまざまな布切れを繋いだ長い首飾りをいくつも下げている。背負った行商箱は彼女の背丈の半分ほどもあり、それでも少女は柱に寄りかかったまま、いかにも暇そうに糸子を眺めていた。

 「迷子じゃない」と糸子は言った。「人を追ってた」

 「追ってた、って過去形ね。つまり見失った」

 「……そう」

 少女はにっこりした。笑うと目尻に小さな皺が寄って、不思議と愛嬌が増す。

 「私はリィナ。ほつれ屋」

 ほつれ屋、という言葉を糸子は知っていた。記憶布の売買を仲介する行商人のことだ。記憶は布として生まれるが、その布が「ほつれ」はじめると価値が落ちる。ほつれ屋はそうした劣化した記憶布を安値で仕入れ、補修したり、あるいは解体して他の記憶と縒り合わせたりして、また市場に流す。縫界を生きる人間にとって、記憶布は貨幣より確かな財産だ。ほつれ屋はその流通の隙間に生きる者たちだった。

 「あなたは?」

 「糸子」

 「名前だけ?」

 「それしか持ってない」

 リィナはしばらく糸子を見ていた。値踏みするような目ではなく、何かを確かめるような、静かな眼差しだった。

 「ふうん」とリィナはゆっくり言った。「名前だけを持つ子。珍しいね」

 「そっちこそ。行商人がこんな市場の隅で何してる」

 「休憩。あとは——」リィナは少し間を置いた。「面白いものを待ってた」

 その言葉の意味を問おうとした瞬間、糸子の右手が熱くなった。

 気がつくと、指の間に糸が通っていた。

 見覚えのない糸だった。細く、透き通るほど白く、しかし確かな重みがある。糸の端を辿ると、それは糸子の胸の内側から伸びているような気がした。胸郭の奥のどこか、言葉にならない感情が凝り固まっているあたりから。孤独、とでも呼ぶしかないもの——名前を持ちながら自分が何者かを知らない、あの澱んだ感覚が、いつの間にか糸として結晶していた。

 「あ」と糸子は呟いた。

 「出た」とリィナが言った。まるで予想通りだったかのように、静かな声で。

 「これ、何——」

 「感情針糸(かんじょうしんし)。あなたの体質でしょ」リィナは箱から小さな鏡を取り出し、糸子に差し出した。「見て」

 鏡の中の糸子は、右手の甲から細い針が一本、すっと突き出ていた。針には先ほどの白い糸が通されている。針は糸子が動くたびにわずかに揺れ、まるでそれ自体が生きているようだった。

 「縫い手の体質だよ、これは」リィナはこともなげに言った。「感情が高ぶると、あるいは深く沈むと、それが針と糸に変わる。珍しいどころじゃない、私はこれまで一度しか見たことがない」

 「一度って——誰で」

 「企業秘密」リィナはあっさり笑った。「でもね、そんな体質を持ってる子が名前だけを持って市場をうろついてるって、ちょっとした事件だよ。どういう事情があるか知らないけど、あなた、今どこへ向かおうとしてる?」

 糸子は答えかけて、止まった。

 向かう先など、考えていなかった。あの男を追っていたのは衝動だった。男の後ろ姿に何かを感じたから、走った。それだけだった。目的地など最初からなかった。

 「わからない」と糸子は正直に言った。

 「じゃあ、一つだけ教えてあげる」リィナは背負い箱を揺すり直し、立ち上がった。市場の人混みへ向かおうとして、ふと振り返る。「辺境の廃園のことは聞いたことある?」

 「廃園?」

 「縫界の外れには古い庭園の跡がいくつもある。記憶布が最初に積み重なった場所、って言われてる。今はほとんど誰も近づかない。布がほつれかけてるから、近くにいると自分の記憶まで滲んで混ざりそうになるって嫌がる人が多い」リィナは少しだけ声を低くした。「でも私は思うんだよね。廃園こそ、縫界で一番大事なものが眠ってる場所なんじゃないかって」

 「どうしてそう思う」

 「だって——」リィナは微笑んだ。今度の笑みは、さっきまでとは少し違う。軽さの奥に、隠しきれない何かが滲んでいた。「一番古い記憶は、一番深いところに眠るでしょ。人だってそうじゃない。忘れたと思ってることが、本当は一番よく覚えてることだったりする」

 それだけ言うと、リィナはするりと人混みに溶け込んだ。蜂蜜色の巻き毛が一瞬揺れて、次の瞬間には見えなくなっていた。

 糸子は手の甲を見た。針はいつの間にか消えていた。白い糸も、どこにも残っていない。胸の奥の凝りはまだそこにあったが、さっきよりも少しだけ、形が変わった気がした。孤独が、好奇心のような何かに縁取られていた。

 廃園。

 糸子はその言葉を口の中で転がした。リィナは意味深に言い残したが、廃園と自分に何の関係があるのか、糸子にはまだわからない。わからないが——あの男もどこかへ向かっていた。継ぎ接ぎだらけの外套で、目的があるように歩いていた。

 「消えてたまるか」

 昨日、廃屋に向かって言い放った言葉が、口からこぼれた。

 今度はもっと広い何かに向けて言っている気がした。ほつれかけた廃園に向けて。名前を失った自分自身に向けて。あるいは、どこかへ消えようとしているあの男に向けて。

 糸子は歩き出した。市場の外れ、石畳が古びて石が欠けはじめる通りの方へ。人の流れに逆らって、辺境の匂いがする方へ。どこへ向かうかまだわからない。それでも足は動いた。感情が指先でかすかに疼き、見えない針が生まれかけては消えた。

 一つだけ確かなことがある。

 あのほつれ屋の少女は、企業秘密とやらを抱えたまま笑っていたが——その笑みの裏に、縫界の崩壊を恐れる目をしていた。糸子にはわかった。孤独を知っている人間には、他者の孤独の輪郭が見える。

 リィナもまた、何かを失うことを恐れている。

 廃園が消えることを。あるいは——もっと別の、大切なものが解けてなくなることを。

 糸子は路地の角で立ち止まり、空を見上げた。糸台を覆う布張りのドームが、夕刻の光を鈍く透かしている。光の中に、記憶布の繊維が浮かび上がって見えた。誰かの泣いた日、誰かの走った朝、誰かの忘れたくなかった顔。それらすべてが交差して、この街の天井を作っている。

 そのドームの端の方が——ほんの少し、ほつれていた。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

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ほつれ屋の呼び声

緒方 縹

2026-05-16

前の話
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