朝は、糸から始まる。
布張りのドームが朝陽を受けると、内側からじわりと光が滲み出すのだ。橙色でも黄色でもない、もっと曖昧な色。縫い目の隙間から漏れる光は細く乱れて、路地の石畳に複雑な影を落とす。見ていると目が痛くなるのに、少女はしばらくそこに立ち尽くして、顔を上げたままでいた。
男とはぐれたのは、昨夜のことだった。
ついてこい、とは言われなかった。ついてくるな、と言われた。それでも走ってついていったはずなのに、いくつかの角を曲がったあと、ふと気づけば路地に一人だった。男の背中は影にまぎれ、どの方向を向いても似たような石壁と似たような扉が並んでいるだけで、どこへ向かえばいいか、何を探せばいいか、少女にはまるでわからなかった。
名前もない。行く場所もない。あるのは、腹の虫の声と、足の裏の痛さだけだった。
朝になっても、街は静かだった。
ここは縫界の内縁部に当たる都市のひとつで、名を「糸台(いとだい)」という、と昨日どこかで聞いた気がした。正確には、聞いたのではなく、剥がれかけた看板の文字を読んだのだった。縫界の都市はどこも布張りのドームで覆われており、その内側で人々は暮らしている。ドームは一枚の巨大な布でできているのではなく、無数の記憶布を縫い重ねて作られた複合体だ。だから継ぎ目があり、模様がちぐはぐで、ところどころ色褪せて薄くなっている。
記憶布、というものがある。
この縫界では、人の記憶は死後あるいは売却された際に布として結晶化する。それぞれ異なる質感と色を持ち、触れた者にうっすらとその記憶の残滓を伝える。都市を覆うドームも、道も、建物の壁も、そのほとんどが記憶布を幾重にも縫い合わせて形成されている。記憶の多い場所は堅固で色鮮やかで、人の往来も多い。逆に記憶の薄れた場所は、布がほつれ、建物が歪み、地面に裂け目が走る。
少女は路地をゆっくりと歩きながら、壁をそっと指先で触れてみた。
ごわごわした感触のなかに、しっとりとした層が混じっている。指の腹に何かが滲んでくるような気がして、少女は目を閉じた。一瞬だけ、誰かの笑い声が聞こえた気がした。赤ちゃんの頃の、誰かの記憶だろうか。それはすぐに消えた。
こういうことが、この世界では日常的に起きる。
記憶を多く持つ者は、この縫界で豊かに生きられる。良質な記憶布を手放さずにいれば、住居も食料も、他者からの敬意さえも手に入る。反対に記憶を持たぬ者、あるいは売り払ってしまった者は、縫界の構造からじわじわと弾き出されていく。壁に触れても何も感じられず、地図を読んでも道が頭に入らず、自分がどこから来たのかさえ靄がかかったように曖昧になる。
少女は、そういう人間だった。
名前の記憶を売った、ということは、昨日のことをどうにか覚えている。銅貨三枚。腹が減っていた。路地の行商人に声をかけられて、よく考えもせずに頷いた。名前を失ってから自分がどれだけの時間をさまよっているのか、それすらもう定かでない。幼い頃の記憶もひどく曖昧で、孤児院にいたような気がするが、建物の様子も、他の子どもたちの顔も、霞の向こうにある。
あの男のことだけが、妙にはっきりしていた。
継ぎ接ぎだらけの外套。縫い目が浮き出た手の甲。「傷は塞いだ」と言ったあとの、どこか投げやりな横顔。少女が駆け出したとき、男は止めなかった。止めながら、歩き続けていた。そのことがなぜか、胸の奥に小さな引っかかりとして残っている。
路地を抜けると、急に視界が開けた。
広場だった。かつては市が立っていたのだろう、石畳の上に錆びた鉄の骨組みが等間隔に並んでいる。テントの布は残っておらず、骨格だけが朝霧のなかに突き立っていた。広場の端に廃屋があった。壁の布が大きく剥がれ、内側の骨組みが剥き出しになっている。骨組みは枯れ木のような木材ではなく、固く縫い固められた記憶布の束だった。それもすでにほつれかけていて、端から繊維が空中に漂っている。記憶布が解けると建物は消える。その前兆だ。
少女はしばらく廃屋を見つめていた。
消えていく、ということが他人事ではない気がした。名前を失った自分も、いつかこうして輪郭がほつれて、どこにも属せないまま霧に溶けるのかもしれない。そう思うと胸の奥が冷えたが、不思議と恐怖よりも先に、何か別のものが込み上げてきた。
腹が立つ、と少女は思った。
消えてたまるか、という気持ちだった。根拠はなかった。でもその怒りは本物で、両手をぎゅっと握ると、指先の感覚が妙に鋭くなった。まるで針を持っているかのような、ちりりとした感触。昨日も似たようなことがあった。感情が高ぶると、手の先に何かが集まってくるような気がする。それが何なのかはわからないが、悪いものではないと直感していた。
広場の水汲み場で顔を洗い、少女は石の縁に腰掛けた。
自分を何と呼ぶか、という問題が、朝からずっと頭の片隅にあった。名前がないと、考えるときに困る。自分について考えようとするたびに、主語が空白になる。「私は」の次が出てこない。何者でもない、ということは思っていたより不便だった。
名前は、売ってしまった。
でも仮の呼び名くらいは、自分でつけてもいいのではないか。
少女は水面を見つめた。映っているのは、ぼんやりした顔だ。記憶を失いすぎると、水鏡にすら自分の輪郭がはっきり映らなくなるのだと、どこかで聞いたことがある。確かに、映った顔はやや滲んでいた。それでも、目はある。口もある。水面の自分と目が合った気がして、少女は少し笑った。
糸子、と声に出してみた。
理由はなかった。針と糸のことを考えていたから、たぶんそれだけだ。ただ、口から出た瞬間、妙にしっくりきた。糸子。糸を扱う子。あるいは糸のように細くて、ちょっとのことで切れそうで、それでもどこかに繋がっていようとしている子。
「糸子」
もう一度、今度は少しだけ大きな声で言った。
誰にも聞こえていない。広場には人がいない。それでも言葉にしたことで、何かが決まった気がした。名前を取り戻したのではない。ただの仮称だ。本当の名前はあの行商人の手の中にある。でも今この瞬間、自分のことを「糸子」と呼ぶことにした。それは他の誰でもなく、自分で決めたことだった。
胸の奥の冷えが、少しだけ和らいだ。
広場の端、骨組みだけになった廃屋の影から、何かが動いた。
糸子は立ち上がり、目を凝らした。人影だった。外套の裾を引きずるようにして歩いている。継ぎ接ぎだらけの、見覚えのある外套だ。
男は糸子の存在に気づいていないのか、あるいは気づいていて無視しているのか、廃屋の壁に手を当てて何かを確かめるように立っている。壁に残った記憶布の繊維が、男の指先に吸い寄せられるように揺れた。
糸子は息を呑んだ。
男が動いた瞬間、外套の裾がめくれた。そこに縫い付けられた布の数々が朝陽を受けて一瞬だけ光り、そして男は振り返った。目が合った。男の表情は昨夜と同じ、何も読めない無表情だった。ただ、その目が一拍だけ止まったことを、糸子は見逃さなかった。
「迷子か」
低く、抑揚のない声だった。
「違います」と糸子は言った。「糸子です」
男は一瞬だけ黙った。それから、ため息とも何ともつかない息を吐いて、再び歩き始めた。
去り際に、ほんの小さな声で何か言ったような気がした。聞き取れなかった。でも糸子は走り出していた。今日こそはぐれない、と思いながら。