縫界では、忘れることにも値がつく。
朝の市場が目を覚ます前の路地に、少女は立っていた。石畳の継ぎ目から古い記憶布がはみ出て、かつて誰かの台所だったらしい橙色の断片が、踏まれるたびにかさりと音を立てる。空はまだ藍色で、ドームの頂点に縫い留められた採光用の白布が、夜明けの気配をじわじわと滲ませていた。
腹が鳴った。三日ぶりだった。
少女は己の腹を手のひらで押さえ、それからその手を見た。指の腹に針の痕がある。いつできたのかは知らない。知ろうとしたこともない。この街の孤児に過去など贅沢品で、明日を生き延びることだけが仕事だった。
記憶売買所は、貧民街の一角に昔からある。看板も出ていない。ただ、扉の枠に細い白糸が幾重にも縫い付けられていて、それが目印だ。扉を押すと錆びた鈴が鳴り、黴と蜜蝋が混ざったような匂いが鼻をついた。
「何を売りに来た」
帳場の奥、山のように積み上げられた記憶布の向こうから、老いた男の声がした。顔は見えない。見せるつもりがないのだろう。この商売では、売り手も買い手も、互いの素顔を知らないほうが都合がいい。
「名前です」
少女は答えた。声が思ったより落ち着いていたのは、もう迷う余地がなかったからだ。昨日の夜、残った雑穀を煮て、底をさらって、それでも鍋は空だった。名前を売ることは三日前から考えていた。最初は怖かった。次第に怖くなくなった。怖くなくなったとき、もう決まったと思った。
「名前か」と男は言った。「珍しくはないな。いくつだ」
「十五です」
「名前は」
少女はわずかに間を置いた。
「——それを売りに来たんです」
男が小さく笑った気配がした。品定めをするような沈黙があって、それから布の山の隙間から細長い手が伸びてきた。指先に針を挟んでいる。
「ここに座れ。痛くはない。名前ひとつで銅貨二枚。名前と顔がひとつながりになってる場合は三枚やることもある。お前さんの名前、誰かに呼ばれたことはあるか」
少女は考えた。呼ばれたことは、ある。路地裏でも、施しの列でも、たまに声をかけてくれる大人がいた。子供同士でも。だからきっと、ひとつながりになっている。
「あります」
「では三枚だ」
帳場の前の低い椅子に座った。男の手が近づいてきて、少女は思わず目を閉じた。針の先が、こめかみのあたりに触れる。痛みはない。ただ、何かが引っ張られるような感覚があった。糸を抜くときの、あの手応えに似ていた。
するすると、何かが抜けていく。
最初はくすぐったかった。次第に温かくなった。そして——
ふいに、自分が誰なのか、分からなくなった。
名前というのは不思議なものだ、と少女は思った。いや、正確にはそのとき少女は何も思えなかった。思うための足場が、ぽっかりと消えていたから。名前を失うとは、ただ呼び名が消えることではなかった。それは、自分を自分として縫い留めていた一本の糸が抜けることだった。引き抜かれた瞬間、すべてが少しだけ、ほどけるような気がした。
「はい、三枚」
男の手が、冷たい銅貨を少女の手のひらに置いた。
少女は銅貨を握りしめた。重さがあった。確かにそこにある。腹は減っている。それも確かだ。でも、自分が誰であるかを問われたら、もう答えることができない。そのことの重さが、じわじわと胸の奥に染み込んでくる。
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、分からないまま、少女は立ち上がった。
「よくある顔だ」と男は言った。「売ったばかりの顔はみんなそういう顔をする。三日もすれば慣れる。自分に名前がないことに」
少女は返事をしなかった。
扉を押すと、錆びた鈴がまた鳴った。
*
路地に出ると、朝が来ていた。
ドームの白布が光を孕んで、街全体が薄く光っている。石畳の古い記憶布が踏まれるたびに、誰かの台所の匂いや、子供の笑い声の欠片が漂った。どれも少女のものではない。誰かが売り払った、誰かの時間の残骸だ。
この街はそうやってできている。誰かの記憶が積み重なって道になり、壁になり、空になる。縫界とはそういう場所だ、と大人たちは言う。だから記憶は価値を持ち、記憶は売られ、買われ、縫い合わされる。
少女は銅貨を三枚、ポケットの奥に押し込んだ。
歩き出す。どこへ、とは考えない。とりあえず食べ物を買う。それだけが今の自分にできることで、それだけが今の自分を自分として繋ぎ止めている。名前がなくなっても腹は減る。それがなんだか少しおかしくて、でも笑えなかった。
角を曲がったとき、誰かにぶつかった。
「っ——」
よろけて石畳に手をついた。指先に鋭い痛みが走った。見ると、針に触れていた。石畳の隙間から突き出た古い針だ。こんなところに。思わず手を引いて立ち上がると、ぶつかった相手はまだそこにいた。
長身だった。黒に近い藍色の外套を着ていて、その至るところにほつれた布の端がぶら下がっている。継ぎ当てが継ぎ当ての上に縫われ、それがまた剥がれかけていて、全体がひどく古びた印象だった。顔は——フードをかぶっているせいで、半分しか見えない。見える半分には、左の頬から顎にかけて、細い縫い傷のような線が走っていた。
「見て歩け」
男の声だった。若い。だが音が少ない。感情を絞り切ったような、平坦な声。
「そっちこそ」と少女は言い返した。口が先に動く。それだけはいつでも変わらない。「こんな朝っぱらから路地の真ん中に突っ立ってたら、ぶつかるでしょう」
男は少女を見た。フードの奥の目が、ほんの一瞬だけ動いた。
「手、出せ」
「え」
「針に触れた。放っておくと縫界の記憶布が傷に入り込む。余計な記憶が混ざってからでは遅い」
少女は少し迷ってから、血の滲んだ手のひらを差し出した。男は外套の内側から細い糸と小さな針を取り出して、少女の傷の上でそれを動かした。針を刺すわけではない。傷の上を糸が撫でる、それだけのことなのに、ぴりと熱くなったかと思うと、じわりと痛みが引いた。
「ありがとう、ございます」
少女は言った。男は答えなかった。糸と針をしまって、踵を返そうとした。
「待って」
なぜ呼び止めたのか、少女自身も分からなかった。ただ何かが動いた。直感とも呼べない、もっと原始的な何かが。針と糸を使う人間が、自分の前にいる。それが、無性に、引っかかった。
男が振り返る。
「お前は」と少女は言った。「記憶布を縫える人ですか」
男は答えなかった。その沈黙が答えだった。
「私も、たぶん——できます。どこかへ行くなら、連れて行ってください」
自分で言いながら、呆れた。名前もない、行き先もない、銅貨が三枚あるだけの孤児が、見知らぬ男にそんなことを言っている。でも不思議と後悔はなかった。ただ、胸の奥で針が震えるような感覚があった。それだけが、今の自分に残った、確かなものだった。
男はしばらく少女を見ていた。
それから、ぼそりと言った。
「名前は」
少女は、一瞬言葉に詰まった。
「——売りました。今朝」
男は何も言わなかった。また沈黙があって、それから外套の裾が風に揺れた。
「ついてくるな」
言いながら、歩き始めた。
少女は三秒だけ立ち尽くして、それから走ってついていった。それが正しい選択かどうかより、走ることのほうが先だった。後ろから見ると、男の外套の継ぎ接ぎが朝の光を受けて、まるでひとつの地図のように見えた。
縫界の、どこかへ続く、地図のように。