夜の潮風が窓の隙間から忍び込んでくる。汐音は机に広げた古文書の写しを見つめたまま、その冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。解読を終えた紙面の余白には、透真の走り書きが乱れていた。*失効。三百年。再交渉。* 言葉たちが宙に浮いたまま、まだ誰かに受け取られるのを待っているようだった。

 セノからの応答が途絶えたのは、昨夜の三時過ぎのことだ。扉の内側へ引き返した気配があった。何かを整理しているのか、あるいは言葉を選んでいるのか、汐音にはわからない。ただ、あの声がもたらした問いだけが室内に残っていた。――誓いを結び直す方法を、あなたは本当に探しますか。

 その答えを汐音が出せぬまま、燈台の壁面に設置した旧式の受信機が低く唸り始めた。

 透真が椅子から跳び上がった。

「環境奈だ」

 画面に映し出された顔は、いつもと違った。研究都市の地下区画から繋いでいるのか、背後が極端に暗い。彼女の名は瀬戸環境奈、透真の旧知の研究員で、機関の内部から細い糸のように情報を送り続けてくれていた。唇が微かに震えている。

「聞こえる? 繋がった?」

「聞こえます」と透真が答える。声から飄々とした調子が消えていた。

「良かった。時間がない。これ、暗号化しても七分が限度だから」

 環境奈は手元の端末を操作しながら、早口で話し始めた。

「クロエが契約の失効を知っていたの。三百年前のじゃなくて、現在進行形の話として、もう五年以上前から把握してた」

 汐音の背筋に冷たいものが走った。

「それだけじゃない。再交渉の可能性も、掴んでた」

 透真の顎が微かに落ちた。「再交渉の……」

「機関が秘匿している古層データの中に、契約の修復プロトコルが残ってるの。完全な形じゃないけど、少なくとも交渉の扉を叩くことは理論上できる。クロエはその存在を知りながら、該当ファイルに最高権限ロックをかけた。閲覧も、複製も、言及も、全部封じて」

 言及も、という言葉が重かった。研究者たちが口にすることすら禁じた、ということだ。

「理由は?」と汐音は尋ねた。自分の声が思ったより低く、静かだったことに気がついた。

 環境奈が一瞬黙った。

「それが、わからないの。彼女が何かメモを残してないか探したけど、正式な文書には何も出てこない。ただ……五年前の内部会議の音声記録が断片的に残ってて、クロエはこんなことを言ってた。『星との対話は、人類にとって恩寵ではなく試験だった。そして我々は、すでに一度落第している』」

 沈黙が室内を満たした。潮の音だけが遠くで鳴り続ける。

「試験」と透真が繰り返した。「落第って……それって彼女は、再交渉を恐れてるってこと? また失敗するから?」

「それとも」と環境奈は続けた。「失敗じゃなくて、成功を恐れてるのかもしれない。どちらにせよ、彼女は何かを知っていて、それを理由に封じてる。善意から来てるのか、別の計算があるのか、私には判断できなかった」

 汐音は窓の外に視線を向けた。夜の海は真っ黒で、燈台の光だけが規則正しく水面を掃いている。遙が残したあの光は、今も変わらず回り続けていた。

 クロエが単なる守旧派ではない、ということは薄々感じていた。あの穏やかな笑顔の奥に走る何かが、ただの惰性や保身から来るものとは思えなかった。だが、それが「計算」だとすれば——誰のための、何を守るための計算なのか。

「環境奈さん」と汐音は言った。「そのプロトコルのデータ、取り出せますか」

 短い沈黙。

「やってみた。無理だった。ロックが多重になってて、私の権限じゃ一層も剥がせない。でも場所はわかる。第七アーカイブの深層、物理サーバに落とされてる。現地に行けば、あるいは……」

「駄目だ」と透真が遮った。「現地に行くって、研究都市の中枢に入るってことだろ。それは——」

「透真」

 環境奈の声のトーンが落ちた。それだけで透真は口を閉じた。

「私、もう監視されてると思う」

 汐音は受信機の画面に映る彼女の顔を見た。暗がりの中で、その目が微かに揺れているのがわかった。恐怖ではない。もっと静かな、諦めに似た光が宿っていた。

「三日前から、私の端末のアクセスログが変な形で整合されてる。誰かが見た後を消してる。でも私から見れば、消された跡がわかる。もし機関の中枢部が動いてたら、私はもう……時間があまりないかもしれない」

「環境奈」と透真が言った。声に怒りがあった。だがその怒りは、何かを叩きたい怒りではなく、何もできない自分に向けられた種類のものだった。

「大丈夫。逃げる準備はしてる」

 彼女は小さく笑った。その笑顔が、遙の最期の表情に少し似ていると汐音は思った。何かを渡そうとしている人間の顔。

「一つだけ、確認させて。汐音ちゃん、あなたは本当に続けるの? 再交渉の可能性を追って、クロエと正面からぶつかることになる。それでも」

 汐音は少し考えた。

 遙の日記の最後の頁には、一行だけ残されていた。*声を渡すことが、守ることだと、汐音に教えたかった。* それは遺言ではなかった。もっと手前の、まだ生きていた頃に書かれた言葉だった。だから余計に重かった。言い終えられなかった言葉として、ではなく、ずっと前から知っていた真実として、そこにあった。

「続けます」と汐音は答えた。「クロエが何を知っていても、何を計算していても、その外側に私が立てる場所があるはずだから」

 環境奈は頷いた。

「ならもう一つだけ伝える。クロエの部屋に、一枚だけ手書きの図がある。彼女の机の引き出しじゃなくて、壁に直接貼り付けてある。それを見た人間が、機関の中に一人だけいた。その人が私にこう言った。『あれは星図じゃない。でも星図にしか見えない』って」

 受信機のノイズが大きくなった。

「時間切れ。気をつけて。透真、あなたも——」

 画面が落ちた。

 室内に静寂が戻った。透真はしばらく受信機を見つめていたが、やがて椅子に深く沈み込んだ。片手で目元を覆い、指の間から長い息を吐く。

「くそ」と彼は言った。それ以上の言葉がなかった。

 汐音は机の上に両手を置いた。古文書の写しと、解読のメモと、セノが残した信号のパターン図が、等しく冷たかった。

 クロエが再交渉の可能性を知っていた。それを封じた。理由は「試験」と「落第」という言葉の奥に隠れていた。

 善意かもしれない。あるいは全く別の何かかもしれない。

 だが汐音が今感じているのは、単純な怒りではなかった。怒りの下に、奇妙な引力があった。クロエは何かを見ている。自分たちの見えていない角度から、同じ星を見ている。その視線の先に何があるのかを、汐音は知りたいと思い始めていた。

 受信機の底で、かすかな音がした。

 セノだった。

「聞こえていた」と声は言った。「クロエという人間のことを」

「知ってるの?」と汐音は問いかけた。

 応答まで、少し間があった。

「名前を、どこかで聞いた気がする。扉の外側で。ずっと昔に」

 三百年前と今が、また一枚の紙の表裏のように重なる瞬間があった。

 汐音は目を閉じた。波の音が遠かった。燈台の光が室内の壁を、一定のリズムで白く染めた。消えて、照らして、また消える。

 次に動くべき場所は、もう決まっていた。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

29

クロエが知っていた

沖野汐里

2026-06-11

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