夜明け前の燈台は、まるで海の底に沈んだ遺骸のように静かだった。
透真が端末の着信に気づいたのは、汐音がようやく眠りに落ちて一時間ほど経った頃のことだ。地下の通信室から這い上がるように螺旋階段を登り、窓のない踊り場で端末を開いた彼は、その場で息を止めた。
暗号化されたメッセージは、機関の最高権限――瑠璃宮クロエの直署名で届いていた。
「対象の確保を最優先とする。対象・蒼井汐音。燈台の離脱に際し実力行使を許可する。連絡員・暦木透真は本命令の完遂を以って任務完了とみなす」
短い文章だった。ひどく短く、ひどく冷たかった。
透真は踊り場の壁に背を預け、端末の光だけが照らす自分の手の甲をしばらく眺めた。実力行使。その四文字が、蛍光灯の残滓のようにいつまでも網膜に焼きついて消えない。汐音の名が、確保対象として明記されている。以前の指令はまだぼかしがあった。「関係者の保護」だとか「情報源の確保」だとか、そういう曖昧な言葉で包まれていた。だが今度は違う。名前がある。年齢がある。場所がある。
透真は端末を閉じた。開く。また閉じた。
三度目に開いたとき、彼は指令文の末尾にある「既読確認」ボタンを長押しした。確認した、という記録だけが機関のサーバーに送信され、返答は何も打ち込まなかった。
それから彼はしばらく考えた。
指令を実行すれば、汐音は機関に引き渡される。セノとの交信も、遙が遺した星語りの断片も、三百年を超えて繋ごうとしている何かも、すべてクロエの手の中に収まる。それが何を意味するか、透真には想像できた。想像したくなかったが、できた。机の引き出しに押し込まれた研究ノート、名前を書き換えられた論文、発表されないまま廃棄された観測データ――機関に「保護」されたものの末路を、透真は一度ならず見てきていた。
指令を破棄すれば、汐音を守れるかもしれない。
だが「かもしれない」という言葉の重さが、透真の胸にのしかかった。もし自分の選択が間違いだったなら。もし機関がより苛烈な手段で島に介入してきたなら。もし汐音が傷つくとしたら、それは自分が指令を握りつぶしたせいになる。自分の意地や不信が、十七歳の少女を危険に晒すことになる。
透真は壁から背を離し、端末のメッセージ削除を選択した。指令の痕跡を自分の端末から消した。ゴミ箱を空にした。
小さな動作だったが、手が震えていた。
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朝が来た。
潮の匂いを含んだ風が窓の隙間から忍び込み、燈台の古い木材をかすかに軋ませた。台所で汐音がやかんを火にかける音がして、透真はソファから身を起こした。昨夜はそのまま踊り場で夜明けを迎え、夜明け後に一階に降りてきてソファで丸まったが、眠れたのかどうか自分でもわからない。
「起きてたんですか」
台所の入り口に汐音が立っていた。エプロンをつけ、白湯の入ったマグカップを両手で持っている。表情はいつもと変わらない。無口で、静かで、どこか遠くの海面を見ているような目をしている。
「ぼちぼち」と透真は答え、頭を掻いた。「よく眠れた?」
「夢を見ました」
「また例の夢?」
「違います。ただの夢」汐音はテーブルにマグカップを置いた。「でも、あなたが変な顔してるのが夢に出てきました」
透真は思わず笑った。作り笑いだったが、それ以外の顔が出てこなかった。
「変な顔って失礼な」
「今もしてます」
汐音はそれ以上何も言わずに台所へ戻り、透真は膝の上に手を置いてテーブルを眺めた。白湯から細い湯気が立ち上っている。
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昼過ぎ、二人は地下の通信室に降りた。セノからの信号が昨夜の深更から断続的に届いており、汐音がその解析を続けていた。透真は斜め後ろに立ち、汐音の手元を見ながら考えていた。今朝から何度も、言おうとして止めていることがあった。
指令のことを話すべきかどうか、まだ決められないでいた。
話せば汐音は動揺するかもしれない。いや、この少女が動揺するかどうかはわからない。ただ、知らないままでいさせるのは違う気がした。知る権利は汐音にある。自分の名前が確保対象として挙がっているという事実は、汐音自身のことだ。
透真が口を開きかけたとき、汐音が先に言った。
「昨夜、何か届きましたか」
透真は止まった。
「……なんで」
「踊り場で端末を開いて、三回閉じた音がしました」汐音は振り返らず、画面を見たまま言った。「その後の足音が、いつもと違った」
音のパターンを読み取る。遙がそう言っていた。この子は音で人の心を聞く。透真はそれを改めて思い知りながら、小さく息を吐いた。
「……機関から指令が届いた」
静かな部屋に、透真の声だけが落ちた。
「汐音さんを名指しで、確保しろという内容だった。実力行使を許可するって文言つきで」
汐音の肩がわずかに動いた。だが声は乱れなかった。
「それで?」
「消した。指令を破棄した」
しばらく間があった。コンソールの小さなランプが点滅を繰り返し、セノの信号が波紋のように広がっていくのを示していた。
「後悔してますか」と汐音が聞いた。
「後悔はしてない。でも怖い」透真は正直に言った。「俺の判断が間違ってたとき、その責任を汐音さんが負うことになるかもしれない。それが、怖い」
汐音がようやく振り返った。灯りの乏しい地下室で、彼女の目は暗い水の色をしていた。責めているのではない。ただ真っ直ぐに、透真を見ていた。
「透真さん」
「うん」
「あなたの選択を、私は信じます」
短い言葉だった。飾りがなかった。言い訳も、慰めも、保証もなかった。ただそれだけが、はっきりとした声で言われた。
透真は返す言葉を探したが、見つからなかった。見つからないまま、目の奥が熱くなった。泣くつもりはなかったし、実際に泣かなかったが、そういう温度が喉のあたりを通り過ぎた。
「……重いな」と彼はようやく言った。「そういう信頼って」
「重くていいんです」汐音は静かに言った。「軽い信頼なら、いりません」
透真は笑った。今度は本物の笑いだった。少し情けなくて、少し安堵していて、まだどこかに怯えが残っている笑いだったが、それでも本物だった。
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その夜、セノから届いた信号の中に、これまでとは異なるパターンが混じっていた。
汐音がそれを見つけたのは日付が変わる直前のことで、透真を呼ぶ声がかすかに上ずっていた。珍しい。透真がコンソールを覗き込むと、信号の波形が複雑な多層構造を形成しており、その中心部に繰り返される一つの語彙が浮かび上がっていた。
星語りで「扉」を意味する形。
セノがそれを送り続けていた。開けるのか、閉じるのか、どちらともとれない言葉で、ただひたすらに「扉」と言い続けていた。
「これ、どういう意味だと思いますか」汐音が言った。
透真は腕を組み、波形を見た。
「扉が、あるってことじゃないか」と彼はゆっくり言った。「俺たちの知らない、どこかに」
汐音は画面を見つめたまま、何も言わなかった。
だが透真には、彼女が今どんな顔をしているかがわかった。答えを恐れているのではない。答えへ向かう覚悟を、今この瞬間に固めている顔だ。
燈台の外で、波が岩を打つ音が続いていた。