嵐が来た。
夕刻から雲の腹が低く垂れ込み、海が唸りはじめた頃には、もう波の白頭が窓ガラスへ塩の飛沫を叩きつけていた。汐音は上の階の発電機室で配線の点検をしていたが、夜半過ぎに主系統が落ちると、燈台全体が一瞬にして深い暗闇に沈んだ。非常灯がぼんやりとした橙色の光をにじませる中、汐音は手探りで階段を下り、一階の管理室へたどり着いた。
透真がすでにそこにいた。
ランタンを一つ床に置き、壁に背を預けて膝を抱えている。その姿は、汐音がこれまで見てきた軽口と飄々とした身振りとはまるで違った。どこか、剥き出しの骨のような静けさがあった。
「発電機、しばらくは無理そうだね」
透真が言った。いつもより声が低い。
「うん」
汐音は彼の斜め向かい、古い木箱に腰を下ろした。外では風が泣いている。燈台の壁を叩く波の音が、地面から這い上がるように響いてくる。地下にセノがいると思うと、不思議と不安は薄かった。
二人はしばらく黙っていた。ランタンの炎が揺れるたびに、互いの影が壁の上で大きく伸び縮みした。
「汐音さ」
透真が口を開いた。独り言のようにも聞こえた。
「僕がこの島に来た理由、本当のことを話したことなかったよな」
汐音は答えなかった。答えなくていいと思った。続きを待った。
「師匠が死んだんだ。三年前」
透真の言葉は短く切れた。炎がまた揺れた。
「研究機関にいた人で、セノの先行研究をしてた。あの地下の設備に最初に手をつけた世代の一人。星語りを、ただの古代通信残滓じゃなくて、今も機能している対話システムとして捉え直した最初の研究者だった」
透真は膝の上で手を組んだ。骨ばった指が、ゆっくりと絡み合う。
「藤埜先生っていう人。変な人でさ、論文より野帳が好きで、データより肉眼を信じるって言い張って。機関では浮いてたけど、一番星語りを愛してた」
汐音はそっと聞いていた。波の音が重なる。
「三年前、先生はある発表をしようとしてた。契約の復元が可能だって。三点七線の欠落を補う鍵が存在するって。それを、クロエ所長に提出する二日前に——」
透真は言葉を切った。
「心不全、って記録されてる」
汐音は息を浅くした。
「でも」
「でも、ね」
透真の口の端が歪んだ。笑おうとしたのか、泣くのを抑えたのか、汐音には判断できなかった。
「先生は健康診断で何も引っかかってなかった。前日も夜遅くまで野帳を書いてた。翌朝、研究室で倒れてた。論文の草稿は、全部消えてた。バックアップも。野帳も見当たらなかった」
汐音の指先が冷たくなった。
「それで、僕は機関に残った。消えたものを探すために。先生が知ってたことを、継いで、表に出すために」
透真はそこで汐音を見た。ランタンの光の中で、その目は思っていたより真っ直ぐだった。飄々とした皮膜の下に、ずっとこれが張り付いていたのだと、汐音は気づいた。
「この島に派遣が決まった時、半分は偶然だった。でも来てみたら、汐音がいて、セノがいた。先生が最後に探してたものが、ここにあった」
汐音は自分の手の甲を見た。遙の鍵のことを思った。先生が探していた欠落の鍵。燈台守が持っていたもの。繋がりが、暗い水の底から浮かび上がってくるような気がした。
「透真」
呼びかけると、彼が少し身体を起こした。
「遙じいが持ってた鍵。あれを、師匠は知ってたと思う?」
透真はしばらく考えた。
「わからない。でも、先生の野帳に『燈台守との接触試みたが拒否された』って記述があった。十二年前の日付で。それだけ覚えてる」
十二年前。汐音が五歳の頃だ。
汐音は遙のことを思った。寡黙な背中を。秘密を抱えたまま病に倒れた老人を。あの人は何から何を守ろうとしていたのか。誰かを遠ざけることで、何を繋いでいたのか。
「汐音、怒ってるか?」
透真が聞いた。
「何を」
「最初から全部話さなかったこと」
汐音は少し考えた。怒っているかどうかを、自分の中で確かめるように。
「怒ってない」
正直にそう言った。
「ただ、もっと早く言ってくれたら良かったとは思う」
透真は静かに笑った。今度はちゃんとした笑いだった。疲れてはいたが、透き通っていた。
「そうだな。ごめん」
「謝らなくていい。私も、全部話してない」
汐音はそこで少し迷った。でも嵐の音が背を押すように感じた。
「セノが言ってた。記憶を意図的に削られたって。三点七線の欠落は、自然に消えたんじゃない。削られた、って」
透真の顔が変わった。眼が細くなり、思考が走り始める気配が伝わってきた。
「それを聞いて、先生のことを思い出した」
透真は静かに言った。声が低く沈んでいた。
「機関は、契約の復元を止めようとしてる。クロエ所長はそのために動いてる。そしてそのために——先生は消された」
汐音はうなずいた。言葉がいらなかった。
ランタンの油が半分を切り、炎が少し縮んだ。二人の影が壁の上でゆっくりと重なり合う位置に落ちた。外では嵐が続いている。波が唸り、風が叫び、この古い燈台はそれでも揺れなかった。三百年前に建てられた石造りの壁が、世界のあらゆる荒れを無言で受け止めていた。遙が守り続けたのと同じように。
「透真」
「うん」
「セノに、師匠の名前を聞いてみる。もしセノが接触を受けてたなら、何か覚えてるかもしれない」
透真は息を呑んだ。
「……本当に?」
「記憶を削られてるから、確かめてみないとわからない。でも、覚えておくって約束した相手だから」
その言葉を言い終えてから、汐音は自分がいつの間にかセノとの約束を、自分の軸として持つようになっていることに気づいた。覚えておく。受け取る。渡す。遙から継いだものと、セノと結んだものが、自分の中で静かに重なっていた。
透真はしばらく何も言わなかった。炎を見ていた。
「汐音、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「怖くないか。クロエが来たら、たぶん全部が動き出す。先生みたいに——」
「怖い」
汐音は遮るように言った。しかし声は平らだった。
「でも、遙じいは怖かったと思う。ずっと、ここで一人で守ってた。それでも鍵を手放さなかった」
透真は何かを言おうとして、止めた。
「私は遙じいの娘じゃないけど」
汐音は続けた。
「あの人から継いだものがある。それだけは確かだから」
嵐の声が少し遠のいたような気がした。実際には何も変わっていない。風は吹き続け、波は打ち続けている。ただ、この管理室の中の空気だけが、僅かに違う質感を持ち始めていた。
二人は夜明けまで、そこにいた。
交代で少し眠り、交代で炎を守った。言葉は多くなかった。それでも、何かが確かに渡されていた。師匠の名前を、記憶の形を、怒りと悲しみを。透真が三年間一人で抱えていたものが、この小さな燈台の中で、もう一人の手に触れた。
夜明け前、空が白み始めた頃、透真がぽつりと言った。
「藤埜先生の野帳、最後のページの最後の行だけ覚えてる。写真で見たから」
汐音は目を向けた。
「なんて書いてあった?」
透真は少し間を置いた。
「『星は返事をする準備ができている。問題は、人間の側だ』」
汐音は静かに目を閉じた。
窓の外では嵐が退きつつあり、代わりに何か別のものが近づいてくるような予感があった。それがクロエなのか、あるいは汐音たちの知らない何か別のものなのか——まだわからなかった。ただ確かなことが一つあった。
もう、透真は一人ではない。