秋の盛りというのに、境界路地だけはどこか時間の歯車が空回りしている。軒先に吊るされた風鈴が音もなく揺れ、縁側の木目には見慣れない模様が毎朝のように増えていた。灯子は今朝も、出勤のついでに(と言っても十歩も歩けば着いてしまうのだが)その模様をじっと眺め、盛大にため息をついた。
「所長代理の机がなんで押入れの前なんですか」
「収納の利便性と執務効率を両立させた、私の渾身のレイアウトです」
さだが得意げに胸を張る。渾身という言葉がこれほど似合わない場面があるだろうか。灯子に充てがわれた机は確かに窓際ではあるが、引き戸を開けるたびに角が直撃する呪われた立地で、ぽん太がすでに三度頭を打っていた。
「ぽん太、大丈夫?」
「大丈夫っすよ所長代理! これくらい鬼の子にはかすり傷っす!」
目に涙を滲ませながらぽん太が言った。かすり傷と呼ぶには少々盛大に腫れ上がった額のこぶを、灯子は見て見ぬふりをした。
閻魔丸はというと、今日も縁側に大の字に転がって昼寝をしている。冥界最高権力者というのはこうも暇なのかと最初は驚いたが、灯子はもうあきらめていた。あの人に書類を持っていくと必ず「後でな」か「灯子がやって」のどちらかが返ってくる。昨日も冥界本部からの通達を七枚、灯子が代筆して判子を押した。
そんな朝のしたくが終わったころ、相談所の引き戸がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、丸い背中に細い足の、老いた男だった。着ているのは少しくたびれた紺のジャンパーで、頭のてっぺんには薄い白髪が数本。その体は灯子の目に、薄荷色の光をうっすらまとった輪郭として映った。幽霊だ。ただ、輪郭がまだ比較的はっきりしている。成仏してから日が浅いか、あるいは強い未練が体の形を保っているのかのどちらかだと、灯子は経験則で判断した。
「あのう……ここが、相談所、ですかな」
老人は入り口でぺこりと頭を下げた。声も体と同じで、かすかに揺らいでいる。
「はい。どうぞお入りください」
灯子は立ち上がり、お茶を一杯用意した。幽霊に茶は飲めないのだが、さだ曰く「形から入るのが礼儀」だそうで、灯子もいつからかそれに倣うようになっていた。
老人の名前は田辺宗一郎。享年七十九歳。三丁目で四十年、小さなアパートを一棟だけ経営してきた元大家だという。
「去年の春に逝きまして。本当なら大人しく三途の川を渡るつもりだったんですが……どうにも、足が動かんのです」
田辺翁が膝の上で両手を揉み合わせた。
「アパートが、気になって?」
「左様で。あそこにはずっと若い衆が住んでくれとって。学生や、就職したての子や……儂はね、一人暮らしを始めた子が家族を作って出ていくのが、なによりの楽しみだったんです」
灯子はペンを走らせながら、田辺翁の言葉をひとつひとつ拾った。
事情はこうだった。田辺翁には身寄りが少なく、唯一の肉親は甥の田辺誠。田辺翁の死後、アパートの相続はこの誠が担うことになっていた。が、翁が冥界で小耳に挟んだ話によれば、誠はすでにアパートを取り壊して売地にする計画を進めているという。
「それだけならまだ……諦められたかもしれんのですが」
翁の声が、ほんの少し揺れた。
「遺言書を、書き換えたと聞きまして」
灯子の手が止まった。
「改ざん?」
「儂の遺言には、アパートを売るならば入居者に買取の優先権を与えると書いておいたんです。誰かが住み続けてくれるなら、それが一番ええと思うて。でもどうも……その一文が、消えているらしくて」
灯子はペンを置いた。胸の奥で、何かが静かに熱を持ち始めた。弁護士として働いていたころ、この感覚を彼女はよく知っていた。理不尽を理不尽だと認識したとき、体が黙っていられなくなる感覚だ。
「田辺さん」
「はい」
「その件、お引き受けします。正式に」
翁は目を瞬いた。うっすらと光る輪郭が、わずかに揺れた。それが泣いているのか驚いているのか、灯子にはまだ読めなかった。
依頼を受理したあと、灯子は縁側の閻魔丸を叩き起こした。
「現世に行く許可をください」
「ん? ああ、いってらっしゃい」
「許可の書類は?」
「灯子が書いて」
灯子は三秒かけて深呼吸をした。
出発前、さだが灯子の襟元を正してくれた。「境界人として現世に戻るのは、今回が初めてですね」と静かな声で言いながら。
「気を付けて行ってらっしゃいませ。あちら側ではあなたは、どちらでもない存在として映ります。生者には少しだけ違和感を与え、死者には少しだけ安心を与える。そういう立場です」
「便利なんだか不便なんだか」
「両方です」
さだは微笑んだ。その笑顔だけが、三百年の重みを静かに帯びていた。
境界路地から三丁目へ出る道は、知らなければ絶対に見つけられない。塀と塀の隙間に、誰かが貼り忘れたような薄い光の膜がある。そこを通り抜けると、急に空気が変わった。
排気ガス。コンビニのドア音。どこかの窓から流れてくる昼のワイドショー。灯子は思わず立ち止まり、大きく息を吸った。生きた世界の匂いだ。
自分の手を見ると、輪郭がほんの少しだけぼやけていた。向かいから来たサラリーマンが灯子の脇を通り過ぎたとき、一瞬だけ視線が止まり、それからすぐに外れた。気になったが、どうしてか思い出せないというような顔をして男は歩き去った。さだの言った通りだ。
田辺アパートは三丁目の裏通りにあった。二階建ての古い木造で、外壁には蔦が這い、郵便受けには色あせた名札がいくつか残っていた。二〇一号室にはうっすら「山田」、一〇二号室には「鈴木夫妻」と読める。住人はまだいるのだ。
管理会社に問い合わせるふりをしながら、灯子は区役所と法務局を回った。職業本能というのは恐ろしいもので、手続きの手順は指が勝手に動く。登記情報を取り寄せ、遺言書の検認記録を調べ、公証役場にも足を運んだ。
そして見つけた。
遺言書の原本と、法務局に提出されたコピーの差異。条文の第三項——入居者への優先買取権を定めた一文だけが、提出書類には存在しなかった。原本に相当する文書の保管番号が変わっている。小さな、しかし決定的な痕跡だった。
「やっぱりね」
灯子は公証役場の外に出て、秋の空を見上げた。薄い雲が流れている。
改ざんは確かにある。しかし証拠として固めるには、まだ足りない。田辺誠本人か、あるいは改ざんに関与した第三者への聴取が必要だ。それをどう進めるか——灯子は半幽霊の体を引っ提げながら、弁護士の頭で組み立て始めた。
帰り道、田辺アパートの前をもう一度通った。一階の窓から、誰かがカーテン越しに外を眺めている。若い女の影だ。学生だろうか。
灯子は、その窓をしばらく見つめた。
田辺翁が四十年かけて守ってきた場所。ここで一人暮らしを始めた若者たちが、やがて家族を連れて出ていく。それを楽しみに生きてきた老人が、自分の死後まで心配してあの相談所に現れた。
縁とは、こういうものかもしれない。血でも契約でもなく、ただ同じ屋根の下で時間を重ねた、それだけのことが人を縛り、人を守る。
灯子は境界路地へ続く膜の前で足を止め、メモ帳を開いた。田辺誠の住所と勤務先を確認する。明日か明後日、接触を試みる必要がある。しかし今の灯子には、現世で法的効力を持つ手続きを踏む手段がない。
半死半生の弁護士に、何ができるか。
問いが浮かんだ瞬間、灯子の口元がわずかに上がった。
できないことを数えるより、できることをやる。それが自分の流儀だ。昔も、今も。
光の膜を潜り、境界路地に戻ると、縁側でぽん太が盛大に転んでいた。さだが呆れた顔で見下ろし、閻魔丸は相変わらず寝ていた。
「所長代理! お帰りなさいっす! 何か分かりましたかっ?」
「分かった。改ざんは確実にある」
「おおっ! じゃあどうするんすか?」
灯子はメモ帳を閉じ、相談所の引き戸を開けた。
「明日、田辺誠に会いに行く。ただし正面からじゃない方法で」
「正面から以外って……」
「幽霊にしか見えない弁護士が、生きた人間を合法的に動かす方法がある」
部屋の隅で、藤代朔がいつの間にか立っていた。今日は来ていたのかと灯子は一瞬思い、しかしすぐに気づいた。彼はいつも、気づいたときにはそこにいる。
「面白いことになりそうですね」
朔が静かに言った。生きているのか死んでいるのか分からないその声が、今日は妙に、現世の匂いをまとっていた。