朝というものが、境界路地にも存在するのかどうか、灯子にはまだよくわからなかった。
相談所の引き戸を開けると、いつもと同じ薄茶色の光が土間に満ちていた。現世の陽光でも冥界の燐光でもない、どちらとも言えないような曖昧な明るさ。生乾きの記憶みたいな色だ、と灯子はいつも思う。
「おはようございます、灯子さん。今朝はよく眠れましたか」
骨川さだが帳場の奥からひょいと顔を出した。腰の曲がった小柄な老女が割烹着のまま土間を掃いている。三百年この場所に居着いているというのに、その所作は朝の主婦そのものだった。
「どこで寝ればいいのか、まだわかってないんですよね。現世に帰ると身体が重いし、ここにいると妙に軽くて逆に眠れないし」
「それが境界人の宿命というものですよ。慣れれば楽になります。三十年もあれば」
「三十年」
灯子は絶句してから、まあそういうものかと諦めた。弁護士事務所で徹夜続きだった頃に比べれば、曖昧な眠りでも十分かもしれない。
帳場に昨日書きかけた書類を広げようとしたとき、引き戸が豪快に揺れた。
ドォン、という音と共に、土間に巨大な影が落ちた。
「おはようございます! ぽん太、出勤しましたッ!」
灯子は振り返って、固まった。
身の丈は優に二メートルを超える。肌は赤みがかった褐色で、額には二本の角が生えている。腕は灯子の胴体ほどもあり、握った拳は大きな西瓜ほどもあった。どこから見ても完全な鬼である。しかし着ているのは、なぜか前掛けのついた作業着で、その胸ポケットには「研修中」と書かれた手作り感あふれるバッジが刺さっていた。
「……あなたが、獄卒ぽん太」
「はい! 閻魔様より接客研修を命ぜられました、獄卒見習いのぽん太でございますッ! よろしくお願いします!!」
腰を折った角度が九十度を超えていた。真剣そのものの表情だった。
灯子は深呼吸した。
「私が研修担当ということ、初めて聞いたんですけど」
「あれ、聞いてないですか。まあいいじゃないですか、細かいことは」
奥の部屋から閻魔丸がのそりと現れた。今日は甚平を着ている。最高権力者の格好ではない。
「よくないです。勝手に人を研修担当にしないでください。私はまだ所長就任も正式に決めてないし、第一、接客ノウハウなんて私だって——」
「灯子さんは弁護士でしたから、人の話を聞くの上手でしょう」
さだがにこにこと言った。否定できない。
「……わかりました。でも書面を作ります。研修内容、目標、評価基準、全部」
「几帳面ですねえ」と閻魔丸は他人事のように言って、またのそりと奥に消えた。
——そして午後になった。
相談所の引き戸が、今度はおそるおそる、という感じで開いた。
入ってきたのは、五十代ほどの男だった。いや、正確には「五十代ほどだった男」と言うべきか。透けかけた輪郭が、亡者であることを静かに主張している。紺色の作業着を着ていて、頭にはヘルメットの跡がまだくっきり残っていた。
「あの、すみません。こちらで、その……相談を、してもらえると聞きまして」
声が小さい。視線が泳いでいる。
「いらっしゃいませ!」
ぽん太が威勢よく前に出た。
依頼人の男は、ぽん太の顔を見た瞬間、声もなく後退りした。膝が笑っている。顔面が蒼白、というか半透明なのにさらに薄くなった気がした。
「お、おお、鬼……」
「鬼じゃないです! 獄卒です! 研修中ですが精一杯対応します! どのようなご相談でしょうかッ!」
ぽん太が身を乗り出した。元気いっぱいである。迫力もいっぱいである。
依頼人はぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「も、もう裁かれるんですか、俺、まだ何も準備してなくて、家族にも何も言えてなくて、妻に謝りたいことがあって、娘の結婚式も見てやれなくて……」
嗚咽が混じり始めた。ぽん太はわたわたと後退りした。
「ちが、違います、裁判じゃないです、相談所です、接客担当です、あの、えっと」
ぽん太の目にも光るものが浮かんでいた。もらい泣きである。巨大な鬼と中年男がふたり、土間でぼろぼろ泣いている光景は、相談所というよりもはや地獄絵図だった。
灯子は額に手を当てた。
「……ぽん太さん、一回下がって」
「す、すみません灯子さん、俺、また」
「いいから。茶を淹れてきて。さださんに頼んで」
ぽん太が肩を落として奥に引っ込むと、灯子は依頼人の向かいに静かに腰を下ろした。
「すみませんでした。驚かせてしまいましたね。こちらは縁結びの相談所です。裁判とは関係ない。私は榊原灯子といいます。あなたのお話を聞かせてもらえますか」
弁護士時代に使っていた声だ、と灯子は自分で気づいた。感情を無理に取り除くのではなく、静かに落ち着かせるための声。依頼人が弁護士室に入ってきたとき、怯えや混乱を柔らかく受け止めるための声。
男が顔を上げた。
「縁結び……ですか」
「ええ。あなたが言った、奥さんへの謝りたいこと、娘さんの結婚式。その話を聞かせてもらえますか。順番に、ゆっくりで構いません」
男は少しの間迷ってから、ぽつりと話し始めた。
名前を菊池義雄といった。建設現場で三十年働いてきた。不器用な人間で、家族への感謝をうまく言葉にできないまま生きてきた。妻の手術の日に仕事を優先した。娘が大学を諦めたとき、慰めの言葉ひとつかけてやれなかった。そして去年の現場で足場から落ちて、気がついたら境界路地の入り口に立っていた。
「娘が来年、結婚するんです。相手の男を俺はまだ見たこともなくて。妻は喜んでるらしいのに、俺はその場にいない」
灯子は話を聞きながら、手元の紙に走り書きをしていた。議事録を取る癖が抜けない。
「現世のご家族は、あなたがもういないことを知っている?」
「ええ。葬式も済んでると思います」
「でも、あなたはまだ境界にいる。裁きの場に進まないのはなぜですか」
男は黙った。それから、ぽつりと言った。
「行けないんです。娘の顔を、ちゃんと見てからじゃないと」
灯子は書き止めた。ここが核心だ、と感じた。弁護士のときもそうだった。人が本当に言いたいことは、最初に出てくる言葉の三枚くらい奥にある。
「娘さんに会いたいのではなく——見届けたいんですね。幸せかどうかを」
男がはっと顔を上げた。
「……そうです。そうなんです」
「それは、縁の話ですね」
灯子は書き終えた紙を手元に置いた。
「あなたと娘さんの縁は、あなたが亡くなってもなくなってない。娘さんが新しい縁を結ぶとき、あなたはまだその縁の端を持っている。そう考えれば、相談内容はこうなります。娘さんの結婚という縁の場に、何らかの形で立ち会う方法を探す」
菊池義雄が、ゆっくりと深くうなずいた。目がもう泣いていなかった。
「……頼めますか」
「引き受けます」
灯子は自分でも驚くほど自然にそう言っていた。
奥から、ぽん太がお盆を持ってそろそろと戻ってきた。湯呑みが三つ乗っている。ぽん太の巨大な指がお盆の縁をしっかり握っていて、こぼさないよう真剣な顔で歩いているのがなんとなく健気だった。
「あの……お茶です。こぼしませんでした」
「ありがとう」と灯子が言うと、ぽん太は照れたように角を揺らした。
菊池が湯呑みを受け取って、一口飲んだ。
「美味しい」
「ほんとうですか!」ぽん太の目が輝いた。「さだばあちゃんに教えてもらいました!」
菊池がわずかに笑った。おそるおそる、という笑い方だったが、確かに笑った。
それを見届けてから、灯子は奥の部屋に向かって声を上げた。
「閻魔さん、菊池義雄様の依頼、相談所として正式に受理します。書類の様式を用意してください」
しばらく間があった。
「——灯子さん、やっぱり所長向きじゃないですか」
のんきな声が奥から返ってきた。
灯子は盛大にため息をついた。向きとかそういう話をしているのではない。しかしなぜか、腹の底に小さく、灯が灯ったような感覚があった。
不本意だ、と灯子は思った。
思ったが——悪くない、とも思った。
縁というのは、探すものじゃなくて、気づいたときにはもう繋がっているものなのかもしれない。まだ確かめるにはデータが足りないが。
そのとき、引き戸がまた開いた。
藤代朔が、いつもの飄々とした顔で敷居に立っていた。
「あれ、今日は依頼人がいるんですね」
菊池義雄が朔を見て、ぽつりと言った。
「……その人、生きてますか」
灯子も改めて朔を見た。
朔はにこりと笑って、なにも答えなかった。