廊下の奥から、かすかに湯気の立つ気配がした。

 灯子が閻魔丸と睨み合ったまま身動きを止めていると、障子がするりと開いて、小柄な人影が現れた。盆の上には湯気の立つ急須と、緑がかった小さな菓子が並べられた皿。

 ぽてぽてと、廊下をゆっくり歩いてくる。

 着ているのは紺地に細かい格子の入った綿の着物で、頭の白髪は後ろでちんまりと結われている。皺は深いが、顔の輪郭は柔らかく丸く、耳たぶが長い。七十は過ぎているかと思えたが、もっとずっと、ずっと昔から在るような——そういう雰囲気を纏っていた。

「まあまあ、お二人とも。そうがなり立てては、お腹が空くだけですよ」

 声は低く穏やかで、どこか底に重さがあった。

「さだ」と閻魔丸が不満げに唇を尖らせる。「こっちは真面目に所長任命をですね」

「はいはい」

 彼女はさらりと閻魔丸の言葉を受け流し、文机の横にぽんと膳を置いた。湯呑みの中は深みのある緑色で、立ち上る湯気が細く揺れている。皿の上の菓子は楕円形で、表面がうっすら翡翠のように透けていた。

「緑豆を蜜で炊いたものです。冥界でもこちらの材料は手に入りにくくなりましたが、先週、三途川沿いの行商から仕入れましてね」

 灯子は警戒しながら、しかしその香りに引き寄せられるようにひとつ摘まんだ。口に入れると、ふわりと甘みが広がり、豆の青くさい滋味が後から来た。懐かしい——とは言えないはずなのに、どこか記憶の底をくすぐる味だった。

「……おいしい」

 思わず声に出ていた。

「まあ、ありがとうございます」

 老いた目が細くなり、その奥に光が宿る。灯子は慌てて居住まいを正した。

「あなたは——」

「骨川さだと申します。骨の川に、貞操の貞、でございますが、みなさん平仮名でさだと」

 さだは膳の向こうに正座し、ゆっくり頭を下げた。

「こちらの相談所に居ついて、三百年ほどになりますか」

「三百年」

 灯子は思わず繰り返した。

「長いでしょう」と、さだは少しも得意げでなく言った。「もとは江戸の頃に流行り病で死んだ身でして。成仏を待つあいだ、ここで少し手伝いをしておりましたら、気づけばこうなっておりました」

「成仏待ちが三百年」

「閻魔さまがいつも書類を溜めてしまわれるので」

 さだの視線が横にずれる。閻魔丸は目を逸らして、急に指の先を熱心に眺め始めた。

「…………」

「…………」

 灯子は湯呑みを両手で包み、ゆっくり一口飲んだ。煎茶にしては深く、しかし棘がない。こちらも妙に体に馴染んだ。

「三百年で、相談は随分来たでしょうね」

「ええ、それはもう」

 さだは膝の上で手を組み、視線を少し遠くへ向けた。縁側の向こう——灯子には何も見えないが、さだには何か見えているらしかった。

「この相談所の始まりは、もっとずっと前のことでございますよ。記録だけを読めば、八百年は遡れる。縁結びというのはもともと冥界の仕事でして——今は廃止になっておりますけれど」

「廃止?」

「上の方々の決定でございます」とさだは穏やかに言ったが、その声音の底に、鋭いものが一瞬だけ走ったように灯子には聞こえた。「縁結びは効率が悪い、数が読めない、現世への干渉が過ぎると。二百年前に公式には閉鎖されまして。ただ——」

 ちら、とさだの目が灯子を見た。

「なんとなく、ここは残っております」

「なんとなく、で残るものですか、冥界でも」

「残るべきものは残るのですよ」

 きっぱりと言って、さだは湯呑みを自分の前に引いた。

 灯子は少し考えた。縁結びが廃止され、相談所だけが取り残されている。閻魔丸はその相談所に、半死半生の自分を引き込もうとしている。どこかに——必ず理由があるはずだ。弁護士の習慣で、灯子は事の輪郭を整理しにかかる。

「私が今、なぜここにいるか、あなたはご存知ですか」

「ある程度は」

「ある程度というのは」

「あなたが事故に遭われたこと、三途川の手前まで来られたこと、そして——こちらへ迷い込まれたこと」

 さだの目が、再び灯子へ向く。今度はまっすぐに。

「迷い込んだのではないと思っています」と灯子は言った。「道があって、私は歩いた。そういう感覚でした」

「……そうですか」

 さだの声が、ほんの少しだけ変わった。驚いているのか、あるいは確かめているのか。

「灯子さん」

 名前で呼ばれた。さだはまだ名乗りも聞いていないのに——そう気づいた瞬間、背筋に細い冷たさが走る。

「半死半生というのは、珍しいことではございません。大きな病、重い事故、そういった際に三途川の縁まで来て、戻られる方は世にいくらでもいらっしゃいます」

「でも」

「でも」と、さだはゆっくり続ける。「あちらでも、こちらでも——どちらでもなく、どちらにも属せる方というのは、話が別でございます」

 部屋に静けさが落ちた。

 閻魔丸まで、珍しく黙っている。

「千年に一度」

 さだの声は低く、しかしはっきりしていた。

「そういう方が現れると、古い記録には書かれております。現世と冥界の境に等しく立てる——境界人、と呼ばれる存在が」

「……私が、それだと言いたいのですか」

「今はまだ、可能性のお話でございます」

 さだは穏やかに笑った。皺が深くなり、目尻が下がる。しかしその笑顔の裏側に、長い時間を生き延びてきたものの、静かな確信があった。

「ただ、その境界人が現れる時というのは決まって——縁の糸が大きく絡まっている時だと、記録には書かれておりましてね」

 縁の糸が、絡まっている。

 灯子は自分の手を見た。何も見えない。何も見えないが、何かを感じる気がした。事故の後から——いや、もしかしたら事故の前から——自分の周りに漂っている、説明のつかない何かを。

「……こわい話をするんですね」

 灯子はぽつりと言った。他意はなかった。ただ、本当にそう感じた。

「怖いですか」

「怖い、というよりも——重い」

 さだは少し間を置いてから、ふふ、と小さく笑った。

「そうですね。重うございます。千年分の縁というのは、そりゃあ重うございますとも」

 それからお茶をひと口飲み、菓子を灯子の皿へもうひとつ載せた。ごく自然な仕草で、まるで孫に菓子を勧める祖母のように。

「でも、灯子さん」

「なんですか」

「重いものは、独りで持たなくていいのですよ」

 灯子はしばらく黙った。

 窓の外では、相変わらず見たことのない色の光が緩やかに揺れていた。現世の日差しとは似て非なる、冥界の曖昧な昼の光。遠くからぽん太の大きな体が何かにぶつかる音が聞こえ、続いて「申し訳ございませんでしたあああ」という号泣が廊下に響いた。閻魔丸が「またか」と呟いて、だらりと姿勢を崩す。

 その間抜けさが、妙に灯子の気持ちを柔らかくした。

「……とりあえず」と灯子は言った。「任命の条件について、ちゃんと書面にしてください。口約束は信用しません」

「もちろんでございます」と、さだは笑顔のまま答えた。「私が証人になりましょう。三百年こちらにおります身ですから、証人の信用度という点では——まあ、それなりに」

「閻魔丸さん」

「なんですか」

「ペンと紙を出してください」

 閻魔丸は盛大に眉を寄せたが、さだがちらりと目を向けると、ごそごそと文机の引き出しを漁り始めた。

 緑豆の菓子をもうひとつ口に入れながら、灯子は密かに考えた。千年に一度の境界人。縁の糸が絡まる時。古い記録と、廃止された縁結び機能と——そして三百年、ここに居続けているこのお婆さん。

 まだ何も分からない。何も分からないが。

 さだが静かに、灯子の湯呑みに茶を注ぎ足した。

 その手の甲に、ほんの一瞬だけ、灯子には見えたような気がした。細く光る糸が、幾本も絡まっているのを。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

3

三百年の古株幽霊、骨川さだ

夕凪 一葉

2026-05-15

前の話
第3話 三百年の古株幽霊、骨川さだ - 笑う閻魔と、三丁目の相談所 | 福神漬出版