秋の気配が境界路地に滑り込んでくる頃、冥界本部からの書類は何の前触れもなく届いた。
相談所の引き戸がひとりでに開いたわけでも、骨川さだが厳かな顔をして運んできたわけでもない。気がつけば、昭和レトロな木製の文机の上に、薄藍色の封筒がぽつりと置かれていたのだ。宛名には「境界人・榊原灯子殿」とある。筆書きのくせに印刷物みたいに整った文字が、かえって灯子の背筋を立てた。
「また本部からですか」
骨川さだが湯呑みを置いて封筒を覗き込む。白い眉をわずかにひそめた。
「開けなさいな。怖がっても中身は変わりませんよ」
灯子は封筒を手に取った。ずしりとした重さがある。書類の物理的な重さではない。もっと別の、判断を迫られるときの重さだ。弁護士だった頃、依頼人の命運が詰まった調書を持つときも、こういう感触があった。
中には三枚の紙が入っていた。
一枚目は通達文。「境界薄化問題における境界人処遇の一時措置について」という標題で、冥界本部・境界管理局の印が捺されている。要旨はこうだった。現世と冥界の境界が各地で薄化しており、このまま放置すると境界人の存在が両界に著しい不安定をもたらす可能性がある。よって、一定期間内に境界人は現世への復帰か冥界への定住かを選択するものとし、選択がない場合は管理局の判断で強制的に固定する——。
二枚目には期限が明記されていた。現世の暦で三十日。
三枚目は、現世復帰の申請書だった。記入済みにするだけで、灯子は翌朝には現世に帰れる。半死半生のまま時間の狭間をさまよう必要もなく、弁護士の資格も記憶も、おそらくは取り戻せる形で。
灯子はしばらく紙を見つめた。
「……そういうことか」
声が出たのは自分でも少し驚いた。感情を抑えようとしているのに、言葉はするりと出てきた。
「私、帰れるんだ」
さだは静かに立ち上がり、灯子の隣に座った。何も言わない。三百年の古株幽霊は、時々こういう黙り方をする。押しつけがましくない沈黙で、ただ隣にいる。それが灯子はひそかに好きだった。
引き戸の向こう、相談所の表の路地では、秋の虫が鳴いていた。冥界の虫だから、現世のコオロギとは少し音が違う。もっと低く、もっとゆっくり、まるで時間を引き伸ばすように鳴く。
灯子は弁護士だったときの自分を思い出した。徹夜続きの書類仕事、勝訴したときの乾いた達成感、依頼人が「先生のおかげです」と泣いたときに困ってしまう自分。縁などという言葉は辞書には載っていても、仕事の中に意識的に使った記憶がない。論理と証拠と手続きで回る世界に、縁は気配すら薄かった。
それがどうして今、封筒一枚を前にこんなにも手が重い。
「灯子さん」
さだが初めて口を開いた。
「帰りたい、と思いますか」
正直に答えようとして、灯子は少し詰まった。
「……思う、と思う。思うはず、なんだけど」
「はず、ね」
さだは苦笑いしたのかもしれない。白い横顔が少しやわらかくなった気がした。
廊下の奥から、ぽん太が走ってくる音がした。相変わらず足音が地響きのようだが、最近は少しだけ抑えるようになった。接客研修の成果が脚にだけ出ている。
「灯子さーん、あの、閻魔様がちょっと来てほしいって——」
部屋の空気を読んだのか、ぽん太はそこで言葉を切った。屈強な体躯で三角になった目が、封筒と灯子の顔を交互に見る。
「……なんかあった、の?」
「大丈夫」と灯子は立ち上がった。三枚の紙を揃えて封筒に戻し、文机の端に置く。「閻魔のとこ、行ってくる」
閻魔丸の執務室、と呼ぶには少々おこがましいその部屋は、六畳ほどの畳敷きで、書類の山がいくつもそびえている。いつもなら閻魔丸はその書類に顔を埋めるようにして昼寝しているか、何かくだらないことで腹を抱えて笑っているかのどちらかだ。
今日は違った。
閻魔丸は縁側に面した障子を少し開けて、外を見ていた。冥界の空はいつも曖昧な色をしているが、今日はなぜか夕暮れに似た橙が薄く差していた。
「来たか」
振り返らずに言う。
灯子は部屋に入り、少し離れたところに立った。
「通達、読みました」
「そうか」
閻魔丸はしばらく黙った。書類の山にも笑いのツボにも一切触れず、ただ橙色の空を見ている。その横顔が妙に静かで、灯子は少したじろいだ。いつもの天然で豪快な冥界最高権力者とは、どこか様子が違う。
「強制はしない」
静かな声だった。
「本部の通達には従わなければならないが、あなたをどちらかに押し込むかどうかは、私が最終的に判断する。そしてその判断を、私はあなたに委ねる。あなたが決めること、だ」
灯子は少し息を止めた。
「……それって、本部に逆らえるんですか」
「逆らうというより、私が閻魔だということだ」
閻魔丸は初めてこちらを向いた。いつも笑っているのに笑いのツボが謎だと言われるその顔が、今は完全に凪いでいた。書類が嫌いで雑務を丸投げする怠け者の顔ではなく、何千年も裁きを積み重ねてきた者の顔をしていた。
「灯子、あなたは現世で何かをやり残したか?」
「……」
「ここで何かをやり遂げたいか?」
「……それが、わからないから困ってるんです」
正直に言ったら、閻魔丸はふっと表情をゆるめた。笑ったわけではない。ただ少し、人間みたいになった。
「そうか。ならゆっくり考えろ。三十日ある」
「閻魔丸さんは、私に残ってほしいんですか」
問いは、自分でも意外なほど素直に出た。灯子らしくない聞き方だと思った。論理も証拠も挟まず、ただ答えを求めた。
閻魔丸は少し間を置いた。
「私が答えたら、あなたの決断が歪む」
「それは答えじゃない」
「法廷みたいなことを言うな」
「弁護士なんで」
閻魔丸はそこでようやく、少し笑った。いつものあの、笑いのツボが謎な笑い方ではなく、もっと小さく静かな笑い方だった。
「……牛島の話、聞いたか」と閻魔丸は言った。
「聞きました。転生して、介護士になったって」
「ああ。記録を読んだ」
灯子はそれを聞いて、昨夜気づいたことを思い出した。閻魔丸は書類が嫌いだが、記録は読む。誰にも気づかれないように、一人で、静かに。
「縁というのはな」
閻魔丸はまた外を向いた。
「結んだ瞬間に輝くものじゃない。時間をかけて、じわじわと、気がついたら光っていたというものだ。あなたがここに迷い込んでから、何本の縁を見た?」
灯子は数えようとして、やめた。数えられない。牛島の縁も、もっと前の依頼人たちの縁も、さだの三百年の縁も、ぽん太の不器用な縁も、藤代朔の正体不明の縁も。
「……たくさん」
「そのうちの何本があなた自身の縁だと思う?」
答えが出なかった。
答えが出なかったまま、灯子は縁側の淡い橙の光の中に立ち尽くした。三十日という期限が、今この瞬間だけ酷くリアルな重さを持って、肩の上にある。
現世に帰れば、また弁護士に戻れる。論理と手続きと証拠の世界で、きちんと生きることができる。
だがそれは、この路地を、この相談所を、ここで結ばれてきたすべての縁を、後ろに置いてくることだ。
灯子はまだ、何も言えなかった。
文机の上の薄藍色の封筒が、路地の虫の声の中で、静かに返事を待っていた。