秋というには少し早く、夏というには少し遅い、どっちつかずの午後だった。
三丁目の境界路地は今日も薄くもやがかかっていて、現世の乾いた風と冥界の湿った空気がちょうど拮抗する、奇妙な凪の時間帯に入っていた。灯子は縁台に腰を下ろして、山積みになった帳簿を膝の上に広げ、ぶつぶつと文句を言いながら数字を追っていた。
「なんで縁結びの件数が増えると経費も増えるんですか。閻魔丸さん、これ何に使ったんですか、この『その他雑費・魂の燃料代』って項目」
「ん? 美味かったよ」
縁側の端で将棋の駒を一人で並べていた閻魔丸が、振り返りもせずに答えた。にたりとした笑いがこちらに向かってこないぶん、余計に腹が立つ。
「食べ物じゃないです! 魂は!」
「食べてないよ。ただ眺めてただけだよ」
「それも困ります!」
灯子の怒号に縁側が揺れた。奥の部屋からさだが急須を手に顔を出し、「まあまあ、お茶にしましょう」と涼しい顔で言った。三百年の世話焼きは、この程度の口論では眉ひとつ動かさない。
ぽん太が縁側の柱の陰から恐る恐る覗いていた。接客研修で「お客様が声を荒げていても、こちらは笑顔で」と教わったはいいが、上司たちが怒鳴り合っているときにどんな顔をすべきかが分からず、いつもこうして柱にへばりついている。
そのときだった。
玄関のほうから、ふわり、と温度が変わった。
冷たくもなく、温かくもない。ちょうど手のひらに息を吹きかけたときのような、やわらかい揺らぎ。灯子は帳簿から顔を上げた。
「……誰か来ましたか?」
さだが急須を置いて、すっと立ち上がった。白い眉が微かに動く。
「夢の声ですよ」
それだけ言って、さだは玄関の方へ向かった。灯子も帳簿を脇に置いて立ち上がる。
転生した魂が夢を通じて相談所へ連絡を入れてくることは、ごくまれに起こる。当人に意識はなく、眠りの中で魂の一部がほんの少しだけ古い記憶の波長に乗る、とさだは説明してくれたことがあった。ちょうど夢の中で昔の友人の声を聞くのに似ている、と。長くここに居ないと受け取れない、繊細な信号だ。
土間に降りると、空気の揺らぎが少し強くなっていた。声、というより気配に近い。でも確かに、そこに何かがいる。
「……どちら様ですか」
灯子が問うと、揺らぎがぴくりと反応した。
そして、聞こえた。
『オレ、牛島です』
一瞬、全員が止まった。
ぽん太の角がぴんと立った。さだの白眉が上がった。閻魔丸が将棋の駒を持ったまま首だけ伸ばした。灯子は二秒かけて、その名前を自分の記憶の棚から引っ張り出した。
「……牛島? あの、クレーマーの?」
『クレーマーゆわんといてください』
揺らぎがそう言った。声ではなく思念に近い、ふわふわした伝わり方だったが、内容は明瞭だった。灯子は思わず吹き出しそうになるのを奥歯で噛み殺した。
牛島重雄。生前はとにかく気難しく、何かと言えば相談所に怒鳴り込んできた亡者だった。いざ転生先を決める段になって散々わがままを言い、「虎に生まれ変わりたい」などと言い出して閻魔丸を困らせた、あの牛島だ。
「報告に来たんですか?」
『そうです。なんか、来たくなって』
さだが柔らかく微笑んだ。「まあ」とだけ言って、土間に置いてある小さな木の椅子を揺らぎの方へ向けた。座る体はないのに、そういう所作をするのが、さだの流儀だった。
『介護士になりました』
静かな告白だった。
灯子はしばらく黙った。虎になりたいと言っていた男が、介護士になった。
「……それは」
「素晴らしゅうございますね」
さだが先に言った。灯子は頷いた。
「うん。素晴らしい。でも……あなた、生き物の中で一番強いのに憧れてたんでしょう」
『そうなんですよ』
揺らぎが苦笑するような波を打った。
『自分でもなんでか分からんのですよ。ほら、オレ前の人生で、ずっと弱かったじゃないですか』
「……聞いてませんでした、そこまでは」
『あの、閻魔様には言いましたよ。記録にあるでしょ』
灯子は閻魔丸を振り返った。閻魔丸は将棋の駒を盤に置いて、にんまりした。
「あるよ」
「読んでないんですか」
「読んでない」
「なんで!」
「美味しそうじゃなかったから」
灯子は深呼吸した。牛島の揺らぎが、くっくっ、と笑うような波を出した。
『変わらないですね、ここ』
「変わりません」
さだが微笑みながら言った。「ここはそういう場所ですから」と。
『で、報告なんですけど』
揺らぎが少し引き締まった。真面目な話をするときの、わずかな空気の変化。
『担当してる、九十二のおじいちゃんがいるんですよ。もう寝たきりで、なんもしゃべらんくなってる人で』
「うん」
『ある日、目ェ開けたんですよ、そのじいちゃんが。ぼんやりした目で、オレの顔見て』
灯子は縁台に腰を下ろした。さだも、ぽん太も、閻魔丸までもが、揺らぎの方を向いていた。
『で、オレ、なんて言えばいいかわかんなくて』
「うん」
『気づいたら言ってたんですよ。「あなたは虎みたいに強い」って』
沈黙。
三秒後、灯子は噴き出した。
「牛島ぁ!」
『なんですか!』
「あなたが虎になりたかったんでしょう! なんでそれをおじいちゃんに言ってるんですか!」
『オレもわかんないんですよ! でも言ったら、じいちゃんが笑ったんです!』
その一言で、部屋の空気ががらりと変わった。
灯子は笑いながら目元を押さえた。さだが「まあまあ」と言いながら、小さく肩を揺らしていた。ぽん太は角を両手で押さえて、目をうるうるさせていた。鬼の涙腺はいつも緩い。
閻魔丸だけが、静かに笑っていた。にたり、でも、にやり、でもなく、ただ穏やかに、口の端を上げて。
『じいちゃん、声も出なくなってたのに、笑ったんですよ。なんか、オレ、それで泣いちゃって』
「介護士が泣いてどうするんですか」
『わかんないですけど、でも泣いたんですよ。じいちゃんも泣いて、二人で泣いて』
「虎が二頭で泣いてたんですね」
『なんでそういうこと言うんですか!』
また笑いが弾けた。土間が、縁側が、境界路地の秋めいた空気が、笑いで揺れた。三百年分の落ち着きを持つさだでさえ、声を立てて笑っていた。ぽん太は泣きながら笑っており、どちらが優勢かよくわからない状態だった。
揺らぎが、少し薄くなってきた。夢の信号は長くは続かない。
『そろそろ行かんといかんかも』
「そうですか」
『あの、ここに来たのは、ありがとうを言いたかったからです。縁、繋いでもらったから。この仕事に就いたのも、たぶん、その縁のせいです』
灯子は答えなかった。代わりに、真っ直ぐ揺らぎを見た。
「牛島さん、その九十二のおじいちゃんのこと、大事にしてあげてください」
『はい』
「虎みたいに強い人の手を、ちゃんと握っといてあげてください」
揺らぎが、ふわりと温かくなった。
『わかりました。じゃあ、また』
「また」
灯子が言い終わる前に、揺らぎは溶けるようにして消えた。土間に残ったのは、秋の手前の空気と、笑いの残り香だけだった。
しばらく誰も喋らなかった。
先に声を出したのは、ぽん太だった。
「牛島さん、よかったっすね」
それだけで十分だった。灯子は縁台に戻り、帳簿を手に取った。数字の羅列が、さっきより少し愛しく見えた。この帳簿の一行一行に、転生した誰かがいる。笑っている誰かが、泣いている誰かが、虎みたいに強いと言い合っている誰かが。
「閻魔丸さん」
「ん」
「縁結びの仕事って、やっぱり終わらないですね」
閻魔丸は将棋の駒を一枚手に取って、くるりと回した。
「そりゃそうだよ。縁は繋がったら終わりじゃないんだから」
灯子は少し考えた。弁護士だったころ、勝訴判決が出れば仕事は終わりだった。依頼人の顔を見届けて、それで完結だった。
ここでは、そうじゃない。
繋いだ縁の先で、誰かが老人の手を握って泣いている。誰かが笑っている。それは相談所には届かないまま続いていく。でも、こうして夢の信号に乗って、戻ってくることがある。
「……なんか、いい仕事ですね」
呟いた言葉に、さだが静かに頷いた。
「そうですよ、灯子さん。最初からそう言っているでしょう」
境界路地に夕方の光が差し込んできた。現世側の光が、冥界側の薄い霧を橙色に染める、一日の中で一番曖昧な時間。灯子は帳簿を閉じた。
ふと、思った。
閻魔丸さんが牛島の記録を「美味しそうじゃなかった」と言った。でも彼は確かに、牛島の話を知っていた。
牛島は「閻魔様には言いましたよ」と言っていた。
ということは、読んでいる。全部。読んだ上で、読んでいないふりをしている。
灯子は横目で閻魔丸を見た。笑いのツボが謎な天然の冥界最高権力者は、将棋盤に向かったまま、ひとつも動かなかった。
さだの声が、「喜助さん」と義助を呼んだあの夜のことが、灯子の頭を静かに過ぎった。
あの夜に閻魔丸が見せた、一瞬の揺らぎ。
残りは閻魔丸に聞け、と朔は言っていた。
まだ、聞けていない。