その夜も、ぽん太は棚を倒した。
相談所の隅に積まれていた書類棚――骨川さだが三百年かけて整理した、歴代の依頼記録がぎっしり詰まったそれを、お茶を運ぶ途中で肩口に引っかけ、轟音とともに崩落させたのだ。
紙の雪崩が座敷いっぱいに広がった。
誰も怒鳴らなかった。それが余計にいけなかった。
閻魔丸は縁側で団子を食べながら「あー」と一声発し、藤代朔は窓枠にもたれて静かに目を閉じ、灯子は額に手を当てて天井を仰いだ。そしてぽん太は、崩れた書類の中にぺたりと座り込んで、大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
「も、申し訳ございませぬ……もう、おいら、何をやっても駄目で……」
その嗚咽は、本当に情けなくてやりきれない響きを持っていた。屈強な体躯から絞り出される泣き声というのは、どうにも周囲の空気をしんと静まらせる効果がある。灯子ですら、咄嗟に言葉が出なかった。
片付けは灯子とさだが黙ってやった。ぽん太は「手伝います」と立ち上がるたびにまた何かを踏んで崩すので、最終的に縁側の柱に背をもたせかけたまま置いておくことになった。閻魔丸は第二の団子を所望し、さだに睨まれて黙った。
深夜になった。
藤代朔はいつの間にか消えており、閻魔丸も奥の座敷へ引っ込んでいた。灯子が台所でぬるくなった茶をすすっていると、さだが音もなく隣に立った。
「灯子さん。少しよろしいですか」
その声が、いつもより低かった。世話焼きの温度ではなく、何か別の重さを帯びていた。
「ぽん太さんのことです」
灯子は湯呑みを置いた。
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縁側に出ると、ぽん太はまだそこにいた。膝を抱えて、夜の路地を眺めている。境界路地の夜は妙に静かで、現世の街灯のぼんやりした光が、一枚薄い膜を通したように滲んで届く。屈強な背中が、今は妙に小さく見えた。
「ぽん太さんはね」とさだが言った。灯子の隣に並んで、縁側の柱に手をついて。「もとは人間だったんですよ」
灯子は黙って続きを待った。
「といっても、ずいぶん昔のことですわ。おいくつのときだったか……十九か、二十かそこらでしょうか。わたしが初めて会ったころには、もう獄卒になっていましたけれどね」
「どうして獄卒になったか、聞いてますか」
「ええ」さだはゆっくり頷いた。「本人の口から、一度だけ」
三百年の間には、長い夜がいくらでもある。さだが語るには、ある夜ぽん太が珍しく酒を飲んで、少しだけ話したのだという。生きていたころのこと。誰かを、傷つけてしまったこと。
「詳しいことは、わたしも知りません。ぽん太さん自身、あまり覚えていないのかもしれない。でもね、灯子さん」さだの声が、一段柔らかくなった。「あの子がこの仕事を選んだのは、罰を受けたかったからじゃないんです。守りたかったんですよ。誰かを」
灯子は縁側の向こうのぽん太の背中を見た。
膝を抱えたままで、動かない。
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灯子が縁側を歩いていくと、板が軋んだ。ぽん太が肩をびくりと震わせた。
「お説教なら……覚悟は、できてます」
「してないよ」
ぽん太の隣に、どかりと腰を下ろした。板がみしりと鳴った。並んで座ると、ぽん太との体格差がいかに途方もないかがよく分かる。それでも今夜は、なぜか灯子の方が大きく感じた。
「聞いていい?」と灯子は言った。「なんで獄卒になったの」
沈黙があった。夜の路地で、どこか遠くの現世で、犬が一声吠えた。
「……怖かったんです」ぽん太が、ようやく言った。「おいらが生きてたころ、誰かを、傷つけてしまって。わざとじゃなかったけど、わざとじゃなかったからって、許されるわけじゃないから」
「うん」
「それで死んで、裁きを受けたとき、閻魔様が言ったんです。おまえの後悔は本物だ、って。でも灯子さん、後悔が本物でも、傷つけた相手は元に戻らないでしょう。だから……おいら、思ったんです。じゃあせめて、次に誰かが傷つくときに、間に立てる者になりたい、って」
灯子は黙って聞いた。
「弱い人が、もっと傷つかないように。迷子になってる人が、道に戻れるように。……そういう仕事がしたくて。閻魔様に頼んで、獄卒にしてもらったんです。本当は獄卒って、もっと恐ろしい仕事で……おいらみたいなのが向いてるわけじゃないのは、分かってるんですけど」
「向いてない、か」
「だってほら」ぽん太は大きな手で、ぐしぐしと目元を拭った。「今日だって棚を倒して。灯子さんのお茶にも三回こぼして。接客研修、全部やり直しで」
「そうだね」灯子はさらりと言った。「全部やり直し」
「……はい」
「でもさ」
灯子は膝の上で手を組んだ。路地の薄明かりが、二人の輪郭を曖昧にする。
「あんたが泣いてるのを見て、怒鳴れる人間、ここにいないじゃない。今日も」
ぽん太がぱちりと瞬きをした。
「閻魔丸は黙るし、朔はいなくなるし、さださんは後で静かにフォローする。みんなあんたに怒鳴れない。なんでだと思う?」
「……それは、おいらが泣くから、引くんじゃ」
「違う」灯子は首を振った。「あんたの泣き方が、本物だから」
ぽん太の大きな目が、みるみる潤んだ。
「本物の後悔と、本物の情けなさで泣いてる人間を、怒鳴れる人間なんていない。少なくともまともな人間はね。……私もそう。あんたに怒鳴ったことないでしょ、一度も」
「……そういえば」
「説教はしたけど」
「し、しましたね。十七回」
「数えてたの?」
「はい」
思わず灯子は吹き出した。夜の縁側に、くすりという音が溢れた。ぽん太も、困ったような顔で、それでも口の端が少し持ち上がった。
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その夜遅く、灯子は台所のちゃぶ台に向かって、接客マニュアルを書き直した。
これまでのマニュアルは、灯子が弁護士時代の癖でがちがちに組み立てた代物だった。「笑顔を保つこと」「感情を表に出さないこと」「落ち着いた低音で話すこと」。ぽん太にとっては、どれも不可能に近い要求だった。
新しいマニュアルには、そういう項目が消えた。
代わりに書いたのは、たとえば。
「相談者が泣いているときは、こちらも少し涙ぐんでよい。ただし先に泣かないこと」
「物を倒したときは謝罪より先に拾うこと。謝罪は拾いながらでよい」
「怖い顔を指摘されたら『これが通常です』と言って続けること。下手に笑わなくていい」
「本当に話を聞きたいと思ったら、そのまま聞けばよい。技術より誠意」
書き終えて、灯子はペンを置いた。
なんでこんなに時間がかかったんだろう、と思った。向き合えばすぐ分かることなのに。
縁側の向こう、ぽん太はまだ路地を見ていた。さだが出てきて、その巨大な背中に静かに茶を差し出した。ぽん太が両手で受け取って、深く頭を下げるのが見えた。
灯子はマニュアルを手に立ち上がり、縁側へ向かった。
「ぽん太」
振り返った顔は、まだ少し赤かった。
「これ、新しいやつ。明日から使って」
受け取ったぽん太が、ゆっくり目を通した。大きな指が、紙の上をたどる。しばらくして、その指が止まった。
「……灯子さん」
「なに」
「これ、おいらのことを書いてくれたんですか」
「うん」
「……おいら、これでいいんですか」
灯子は少しだけ間を置いて、言った。
「あんたらしくやれば、たぶん誰より相談者の話を聞ける。それが縁結びには要るから」
ぽん太がまた泣き出したので、さだが呆れ顔でもう一杯お茶を持ってきた。閻魔丸が奥から「なんか騒がしいな」と顔を出し、ぽん太の涙を見て「あー」と言ってすっこんだ。
夜の境界路地は、ゆるゆると更けていった。
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それから三日後。
藤代朔が相談所を訪れ、縁側のぽん太に茶を差し出されながら、ふいに言った。
「ぽん太、なんか変わった?」
「そうですか?」ぽん太は首を傾げた。「おいらは変わってないと思いますが」
「……そっか」
朔は受け取った茶をすすりながら、縁側の外を眺めた。その横顔に、いつもの飄々とした色とは違う、何か遠いものを見るような影がよぎった。
「変わらないで、ちゃんと変わってくのが一番いいんだよな」
独り言のようだった。ぽん太には意味が分からず、「そうですか」ともう一度言った。
灯子はその会話を、台所の入口から聞いていた。朔の横顔の、あの影。あれは何だろう、と思った。
縁結び、という言葉が、頭の隅でふと灯った。
朔の縁は、いったいどこへ続いているのだろう。