冥界の夜は、音がない。
正確には、音が「かたまっている」のだと、灯子は最近そう思うようになった。現世の夜には、遠くで走る車のエンジン音や、風に揺れる電線の唸りや、眠れない誰かが台所でそっと水を流す音があって、そういう細々したものがひとつに溶けて「静けさ」を形作っている。だが冥界の夜は違う。音のひとつひとつがちゃんとそこに在るのに、どれもがじっと動かない。固まったまま、息を殺している。
真夜中、灯子はのどが渇いて台所へ向かい、廊下の角で立ち止まった。
常夜灯の代わりに置かれた燐光石がぼんやりと青白く光る、その奥の座敷から、かすかに紙の音がしていた。
さだが眠りについたのは二刻ほど前だ。ぽん太は非番で冥界本部の獄卒寮に帰っている。朔は、今夜は来ていない。
ならばあの音は。
灯子は素足のまま、廊下を滑るように歩いた。紙の音はとぎれとぎれに続いている。ゆっくりと、まるで何かを確かめるように、一枚ずつめくられる気配がある。
引き戸が三寸ほど開いていた。
そっと覗いて、灯子は息をのんだ。
閻魔丸が、一人で座っていた。
あの巨躯がどうやって正座しているのか不思議なくらい、きちんと膝を揃えて、小さな行灯の前に屈みこんでいる。いつもは派手な緋色の直衣が今夜は濃紺の単衣一枚で、髷も結わず、長い黒髪がざんばらに肩へ落ちていた。手元には、薄い木簡や巻物がいくつも積み重ねられている。どれも年季が入っていて、端がほつれ、文字が薄れかけていた。
笑っていなかった。
それが灯子にとって、一番の驚きだった。閻魔丸は笑っていない顔というものを持っているのだろうか、とさえ思っていたのに。行灯の光の中の横顔は、ただ静かで、どこか遠いものを見ているようだった。
立ち去るべきだと思った。しかし足が動かなかった。
閻魔丸は灯子の気配に気づいていないのか、それとも気づいていて黙っているのか、視線を手元に落としたまま、巻物の一点をゆっくりと指でなぞった。長い指が止まる。
「……縁って、偶然じゃないんだよな」
独り言だった。
誰かに話しかけているわけでも、独り言を演じているわけでも、ない。ただ声に出さずにいられなかったような、そういう呟きだった。低く、静かで、行灯の炎と同じくらいの温度を持っていた。
灯子の足が一歩、後ろへ下がった。そのとき板張りの廊下が小さく軋んだ。
「灯子」
閻魔丸は振り向かなかった。名前を呼んだだけだった。
「……すみません、のどが渇いて」
「台所は逆だぞ」
「知ってます」
しばらく沈黙があった。灯子は引き戸の前に立ったまま、中へ入るでも去るでもなく、ただそこにいた。
「見るか」
閻魔丸がそう言って、傍らの巻物を一本、指で軽く弾いた。転がって灯子の足の先に当たった。
灯子は膝をついて拾い上げた。恐る恐る広げると、縦書きの細い文字が隙間なく並んでいる。崩し字と、今は使われていない字体が混じっていて、全部は読めないが、ところどころに「縁」という文字が繰り返し現れた。
「何ですか、これ」
「古い記録だ。冥界がまだ、今と違う仕事をしていた頃の」
「違う仕事」
灯子は部屋の中へ足を踏み入れた。閻魔丸が示した場所に腰を下ろすと、積み重なった木簡と巻物の量が間近でわかった。百や二百じゃきかない。
「裁くだけじゃなかったんですか、昔も」
「昔は、な」
閻魔丸は一枚の木簡を取り上げて、灯子の方へ傾けた。行灯の光が字面を照らす。判読できた文字の中に「縁廻司」という三文字があった。
「縁廻司」
「縁を廻す役目だ。何千年も昔は、冥界にそういう部署があった。死者の縁を棚卸しして、現世に還す仕事だな。終わっていない縁を持ったまま逝った者の記録を調べて、その縁の先にいる生者に渡す。形見とも違う、縁そのものを、だ」
「縁そのものを渡す、ってどういうことですか」
「俺にもよくわからん」
あっさりと言われて、灯子は少し拍子抜けした。
「ただ」と閻魔丸は続けた。「この記録を読むと、その頃の冥界は今よりうるさかったらしいな。死者が賑やかで、縁廻司の連中と口論になったり、礼を言いに来たり、笑ったり泣いたりしておったとある。今はずいぶん静かになった」
どこか寂しそうに聞こえた。灯子がその声の色に気づいたのと、閻魔丸が短く笑ったのがほぼ同時だった。ただし今夜の笑いは、いつもの意味不明な哄笑ではなく、ふっと息を吐くような、小さなものだった。
「いつから読んでるんですか、こういう記録」
「何千年前からだ」
「……そうか、あなたはそれだけ生きてるんでしたっけ」
「死んでもないが生きてもない、だがな」
灯子はもう一度、手元の巻物に目を落とした。縁廻司、という文字がまた目に入る。冥界がかつて縁を結ぶ場所でもあったという事実が、紙の上に静かに刻まれていた。
「今の相談所は」と灯子は言った。「縁廻司とは違うんですよね」
「ずいぶん小さくなったものだ、形だけを言えば」
「形だけ、って言い方が気になります」
閻魔丸はまた少し黙った。木簡を一枚めくる。灯子はその横顔を、今度はちゃんと見た。笑っていない閻魔丸の顔は、想像していたより若く見えた。若いというより、何かをまだ持ち続けている人間の顔だ、と思った。
「縁廻司が廃止されたのは、裁判の効率化って名目でな」
「裁判の、効率化」
「縁をいちいち調べるのは時間がかかる。それより魂を早く振り分けた方が冥界全体が回る、そういう話になった。何千年か前の話だ」
「それを、あなたが決めたんですか」
静かに問うと、閻魔丸は少しの間、答えなかった。
「そうだな」
たった三文字で、ずいぶんたくさんのことが入っているような返事だった。灯子はそれ以上聞かなかった。聞くべき場所と時があると、長年の弁護士仕事で体に染みついていた。今夜はその場所ではない、と感じた。
行灯の炎が小さく揺れた。どこかで風の動く気配がした。冥界に風があるのかどうか、灯子にはまだわからない。でも今夜は確かに、何かが動いた。
「灯子」
「何ですか」
「おまえが前の話でさだに話したこと、俺は聞いていたわけじゃないが、さだが少し教えてくれた」
灯子は固まった。
「父君の話だ」
「……さださんが」
「あの婆さんはおしゃべりだからな。怒るなよ」
怒る気にはなれなかった。ただ、喉の奥が少しだけ、きゅっと詰まった。
「父を亡くしたのが縁結びをやる理由になるとは、俺には言えん」閻魔丸の声は相変わらず低く、静かだ。「だが縁結びをやれる理由にはなるかもしれんな」
「……どう違うんですか」
「理由と、資格だ」
それきり、閻魔丸は巻物に視線を戻した。話は終わったらしかった。
灯子は立ち上がりながら、もう一度だけ積み上げられた記録の山を見た。何千年分もの冥界の歴史が、この座敷の一角に静かに積まれている。そしてこの男は、それを一人で深夜に読んでいる。
いつから、読み返しているのだろう。
なぜ、読み返しているのだろう。
廊下に出て引き戸をそっと閉めながら、灯子は先ほどの呟きをもう一度、頭の中で聞いた。
縁って、偶然じゃないんだよな。
笑いのツボが謎で、書類仕事を丸投げして、天然で、底が見えないこの男が、何千年もかけて静かに悔やんでいるものがあるのだとしたら。
それはどんな形をしているのだろう、と灯子は思いながら、台所へと向かった。水を一杯飲んで、冷えた縁側に腰を下ろすと、冥界の夜が音もなく、そこにあった。