朔が何かを言いかけたまさにその時、引き戸がからりと開いた。
三丁目の夕暮れは早い。境界路地の空は現世より少しだけ赤みが濃く、提灯の灯りが自然とぼんやり滲んで見える時刻だった。閾値を踏み越えて入ってきたのは、小柄な老人だった。七十代だろうか、白いワイシャツに安物のスラックス。やたらと几帳面に撫でつけられた白髪と、どこか水気の失せた眼が、灯子の目に飛び込んできた。
「あの」と老人は言った。「こちらは、なんでも相談できる、と聞いたのですが」
灯子は朔への追及を頭の片隅に押し込み、カウンターに向き直った。弁護士だった頃の習性で、初見の相手を三秒で観察する癖がある。清潔感はある。しかし目が、澄んでいない。何かを長く抱えた人間特有の、濁り方をしていた。
「どうぞ。相談承ります」
灯子が椅子を勧めると、老人は恐る恐る腰を下ろした。さだが奥から盆にお茶を乗せて現れ、湯呑を静かに置く。ぽん太は邪魔にならないよう壁際に立っているが、巨体ゆえ存在感は消しようがない。
「名前を、伺えますか」
「村雨、と申します。村雨 隆一」
灯子はノートを開いた。「村雨さん。今日はどのようなご相談で」
老人は膝の上で両手を組み、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「わたしは生前、人を騙して生きていました。詐欺師でした」
静寂が落ちた。
灯子の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「孤独な老人を狙った投資詐欺。二十年で、百人近く。取った金は、億を超えます」
淡々とした告白だった。懺悔というより、事実の読み上げに近い。だからこそ重かった。灯子は胃の底が冷えていくのを感じた。弁護士をしていた頃、詐欺被害者の相談を何件も受けた。老後の蓄えを根こそぎ持っていかれ、家族に言えないまま衰弱した老人の顔を、灯子は今も夢に見ることがある。
「それで」と灯子は言った。声が、自分でも分かるほど平板になっている。「何をご希望ですか」
「謝りたいんです」
村雨は顔を上げた。「被害者の方々に。直接、会って。申し訳なかったと、言いたい」
灯子はノートを閉じた。
「お断りします」
村雨が目を瞬かせた。「え」
「詐欺師が被害者に会いたいというのは、加害者の都合です。謝罪で自分が楽になりたいだけなら、それは被害者への二次加害になりえます。当相談所はそのような場には使えません」
言葉は正確だった。灯子の中の弁護士が、反射的に動いていた。しかし。
「灯子さん」
さだがそっと横に立った。「まだ、全部お聞きしておらんですよ」
「さださん、これは」
「お茶が冷えますよ、村雨さん。どうぞ」
さだの声はあくまでも穏やかで、しかし灯子にはそれが「黙って聞きなさい」と言っているのが分かった。三百年の幽霊に睨まれると、人間だった頃の威圧感より効く。灯子は唇を噛んで椅子に座り直した。
村雨は湯呑を両手で包んだ。「おっしゃる通りです」と、老人は言った。「自分が楽になりたいだけかもしれません。それは、分かってます。でも」
声が少し、揺れた。
「百人の中に一人、わたしと同じような人間がいるかもしれない、と思ったんです」
灯子は眉を寄せた。「同じような、とは」
「だまされた経験のある、人間です」
奥の帳の向こうで、閻魔丸が巻物をひっくり返す音がした。
灯子は立ち上がり、「少し待っていてください」と告げて帳をくぐった。閻魔丸は卓袱台に巻物を広げ、煎餅をかじりながら何かを読んでいた。灯子の顔を見て「あ、怖い顔してる」とのん気に言う。
「村雨 隆一の記録、見せてください」
「なんか面白い展開になってきたな」
「閻魔丸」
「はいはい」
閻魔丸が指を鳴らすと、書棚の奥から古い巻物がひとりでに飛んできた。広げると、びっしりと黒い文字が並んでいる。灯子は目を走らせた。
詐欺の件数、金額、手口。あるところで灯子の目が止まった。
村雨 隆一、四十一歳。妻の療養費捻出のため、消費者金融から融資を受けようとしたが断られ、闇金業者に手を出す。その業者から「簡単に稼げる仕事がある」と持ちかけられ、受け子として詐欺グループに引き込まれる。最初は「一回だけ」のつもりが、抜けようとすると妻への危害をほのめかされ、身動きが取れなくなる。妻は翌年、亡くなっている。その後も詐欺は続いた。
灯子は巻物を置いた。
「灯子、その顔は」と閻魔丸が覗き込んでくる。
「うるさい」
「でも見た? 彼も最初は被害者だったんだよね。だからって免罪符にはならないけど、でもまあ、簡単じゃないよな、人間って」
閻魔丸はあっけらかんとそう言って、また煎餅をかじった。灯子はこの男の、こういう底抜けに平らな物言いが、時々ひどく腹立たしく、そして時々だけ、救いになることを知っていた。
帳をくぐって戻ると、村雨はまだ湯呑を抱えていた。
灯子は向かいの椅子に腰を下ろし、正面から老人を見た。
「一つだけ、聞かせてください」
「はい」
「あなたが謝りたい百人の中に、あなた自身に似た経緯で巻き込まれた人間がいるとおっしゃった。どうしてそう思うんですか」
村雨は少し目を伏せた。「分かるんです。自分がかつてそうだったから。騙す時、騙しやすい人間と、もう疲れ果てた人間と、どこかで追い詰められている人間は、やっぱり違う」
「その人たちに謝りたい理由は」
「分かってほしいんじゃないんです」老人はゆっくり首を振った。「ただ、あなたは悪くなかった、と、言いたい。あの人たちを選んで狙ったのは俺の側だ、と。あの人たちが弱かったからじゃなくて、俺が選んだんだと」
灯子の胸の中で、何かが軋んだ。
軽蔑は消えていなかった。消えるはずがなかった。百人の被害者がいて、その家族がいて、崩れた人生があって、それはどんな事情があっても事実だ。しかし同時に、この老人の言葉の中にある何かが、灯子の中の弁護士ではない部分に触れていた。
謝罪で自分が楽になりたいだけ、と灯子は最初に断じた。しかしこの老人は「分かってほしい」と言わなかった。「あなたは悪くなかった」と言いたいのだと言った。それは被害者のための言葉だ。少なくとも、その形をしていた。
「簡単ではありません」と灯子は言った。「被害者の方々が会うかどうか、それはあちらが決めることです。謝罪を受け入れる義務はどこにもない」
「分かってます」
「会っていただけたとして、何を言われても、黙って受け止めてもらう。怒鳴られても、罵倒されても」
「それで当然です」
灯子はしばらく沈黙した。
「……場を設けることを、検討します」
村雨の目に、かすかに光が滲んだ。灯子はそこから目を逸らした。感情に流されたとは思いたくなかった。これは判断だ、と自分に言い聞かせた。法的感情論ではなく、この依頼が「謝罪の縁を結ぶ」という行為として成立しうるかどうかの、冷静な判断だ、と。
しかし膝の上の手が、少し震えていることには、気づいていた。
「灯子さん」と村雨が言った。「あなたは、優しい方ですね」
「違います」と灯子はすぐに返した。「私はあなたのしたことが嫌いです。今でも」
「はい」
「でも嫌いなまま、動くことはできます」
老人はゆっくりと頭を下げた。その白い頭頂部を見ながら、灯子は奥歯を噛んだ。嫌悪と共感が同じ場所に宿ることを、法律学校では教えてくれなかった。冥界に来なければ、一生知らずに済んだかもしれない感覚だった。
帳の向こうで、閻魔丸がくしゃみをした。「灯子、難しい顔してる〜」などと呑気な声がする。
壁際のぽん太が、こっそりと鬼の目頭を押さえているのを、灯子は見なかったことにした。
村雨が帰った後、さだが静かに湯呑を片付けながら言った。「よかったですよ、灯子さん」
「何がですか」
「嫌いなまま動けるって、それ相当なことですよ」
灯子は答えなかった。ノートを開き、「依頼人:村雨 隆一」と書いた。その下に、ためらってから一行加えた。
――被害者百名への謝罪の縁を結ぶ。可否未定。
引き戸の向こう、境界路地の夜が深くなっていく。提灯の明かりが揺れた。そういえば、と灯子は思った。朔は、あの後どこへ消えたのだろう。
一度閉じた問いが、また静かに、口を開け始めていた。