朝の境界路地はいつも少し湿っている。現世の湿気と冥界の気配が混じり合って、空気そのものがどこか曖昧な色合いを帯びている。灯子はその曖昧さにもようやく慣れてきた自分に気づいて、少しだけ複雑な気持ちになった。

 閻魔丸への問いは、今日こそ切り出す。朔のことを。さだの記憶のことを。義助老人を取り巻く奇妙な縁の糸のことを。頭の中に整理した論点は三つ、想定反論は五パターン、準備は万端だった。

 そのつもりだった。

「灯子さんっ、た、大変でございますっ!」

 相談所の戸が音を立てて開いたかと思うと、ぽん太が転がり込んできた。角に青あざをこさえた哀れな新人獄卒は、棍棒を抱えたまま土間に膝をついた。

「ぽん太、転んでる場合じゃないわよ。何があったの」

「冥界サーバーがっ、エラーをっ!」

 そこで報告が途切れた。なぜなら戸の外から、どよめきが聞こえてきたからだ。

 灯子は戸を開けた。

 路地が、人で埋まっていた。

 いや、正確には人ではない。薄く透けた輪郭を持つ者、着物や洋服が時代ごとにばらばらな者、不思議と穏やかな表情をした者たち。亡者だ。何十人、いや百人は下らないだろう。路地の先まで列が続いていて、その端が見えない。

「お盆、一ヶ月前倒しになっちゃいました」

 ぽん太が涙目で言った。

 灯子の額に青筋が立った。

「一ヶ月って、今は七月頭よ?」

「システムエラーで、今年の帰還スケジュールが全部ずれまして。処理担当の獄卒が書類に『旧暦』と書くべきところを『新暦』と書いて、それを別の獄卒が修正しようとしてさらに間違えて、最終的に閻魔様の承認印が押された書類が全部誤処理に――」

「閻魔丸の承認印って、あの人ちゃんと読んで押してるの?」

 沈黙。

「……書類の山が崩れたはずみに、閻魔様のお手が判子に触れたと聞いております」

 灯子は天を仰いだ。

 当の閻魔丸はといえば、奥の座敷で高らかにいびきをかいていた。大の字で寝ている。さっき灯子が確認したとき、顔に書類が一枚貼り付いていた。

「叩き起こせないの?」

「閻魔様の昼寝を止めると、冥界の気圧が下がるというのが定説でして……」

「気圧より今の状況の方が深刻でしょうが!」

 と、奥から杖の音がした。

「灯子さん、もう見てきました」

 さだが台所から出てきた。白い割烹着がきちんとしていて、顔色一つ変えていない。三百年の古株は、混乱の中でも凪いでいる。

「お盆の一斉帰還ですねえ。まあ、こういうことは昔もありましたよ。百年ほど前に似たようなことが」

「百年前って、全然参考にならないわよ!」

「やりかたは一緒ですよ。さあ、灯子さん、あなたの出番です」

 さだはにこりと笑って、台所に戻っていった。お茶の準備でも始めるつもりらしい。その背中があまりにも泰然としていて、灯子は一瞬だけ毒気を抜かれた。

 ——やるしかない。

 弁護士時代、最悪のタイミングで証拠が消えたことがある。依頼人が逃げたことも、裁判の前夜に書類が全滅したことも、全部乗り越えてきた。あのころと比べれば、相手が亡者だろうと問題の構造は同じだ。

 混乱した案件には、まず秩序を持ち込む。

「ぽん太、外に出て」

「は、はいっ」

「列を三つに分けて。現世に帰りたい人、冥界に戻りたい人、わからない人。それぞれ場所を決めて誘導する。大声出しても泣かない」

「泣きませんっ……たぶん」

「今日は泣いてる場合じゃないから。行って」

 ぽん太が飛び出した。

 灯子は相談所の奥から折りたたみの長机を引っ張り出してきて、土間に広げた。帳面と筆を並べ、受付カウンターを即席で作る。思えば弁護士時代も、書類整理だけは誰より速かった。分類、優先順位、例外処理——頭の中で処理フローが自然に展開していく。

「さださん!」

「はあい」

「お茶は多めに。亡者さんたちも疲れてるはずだから。お菓子も出して」

「ありますよ、うふふ。ちょうど昨日、精進揚げを作ろうと思って材料があります」

「お茶だけでいいです!」

 それから三時間、相談所は嵐のような賑わいを見せた。

 現世に帰りたい亡者は、帰る家を確認して帰還許可の書類に判を押す。冥界に戻りたい亡者は、ぽん太が送迎する。「よくわからない」と言う亡者は、灯子が一人ひとり話を聞いた。

 昭和三十年代に亡くなったという老婦人は「孫の結婚式だけ見たくて」と泣いた。灯子は閻魔丸の判子——目の前で寝ている男の印鑑入れから黙って拝借した——を押した書類を手渡して、式場の方角を教えた。気が引けたのは一秒だけだ。

 明治生まれらしい白髪の老人は「道がわからなくなった」とおどおどしていた。ぽん太が肩を貸して送り届けようとして、老人ではなく自分が転んで泣いた。灯子が代わりに送り届けた。

「灯子さーんっ、また書類が足りなくなりましたっ」

「さださん! 書類の補充を!」

「はあい、ちょっと待ってくださいねえ。あら、こちらのお方は三百年前に一度いらっしゃいましたね。覚えていますよ、足袋が可愛らしかった」

「さださん、今は足袋の話をしてる場合じゃないです!」

 賑やかだった。

 騒がしかった。

 でも、灯子の中のどこかが、妙に落ち着いていた。混乱の中でこそ機能する回路が自分の中にある。理不尽に食ってかかる気質が、今日ばかりは整然と冷えて働いていた。

 亡者たちは皆、思ったよりも穏やかだった。ちょっと困っていて、少し寂しくて、誰かに話を聞いてもらえれば足りる。そういう人たちだった。生きていても死んでいても、人はそういうものなのかもしれない、と灯子は書類に判を押しながら思った。

 昼下がり、ようやく列が途切れた。

 ぽん太はへたり込んで泣いていた。本当に泣いていた。

「三十七人、送り届けました……灯子さん……俺、頑張りました……」

「頑張ったわね。よくできました」

「ほんとうですかっ」

「本当よ。転んだのは三回だけだったし」

「五回です」

「五回だったわね」

 さだが縁側からお茶を持ってきた。二人の前に湯呑みを置いて、自分も一つ持って腰を下ろした。

「灯子さんは弁護士さんだったんですねえ。今日、よくわかりました」

「どういう意味ですか」

「仕切り方が、見ていて気持ちよかったですよ。筋が通っていて、無駄がなくて。昔、ここで働いていた縁結び師たちの中にも、ああいう人はそうそういませんでしたよ」

 灯子は少し黙った。縁結び師、という言葉が胸の中に静かに落ちた。

 そのとき。

 奥の座敷から、大きな欠伸が聞こえた。

「ん〜〜〜……なんかうるさかったな。もう片付いた?」

 閻魔丸が、のそのそと出てきた。頬に書類の跡がついている。目が半開きだ。世界の裁判官とは思えない間の抜けた顔で、土間の長机と書類の束と疲弊した三人を見渡して、

「なんかいっぱいいたね、今日」

 と言った。

 灯子の中で、何かが、ぷつん、と切れた。

「……閻魔丸」

「うん?」

「あなたが書類を確認せずに判を押したせいで、百人超の亡者が一斉に押し寄せて、私とぽん太とさださんで三時間対応したんですけど」

「あらそう。ご苦労さん」

「そのひと言で済ませるつもり?」

「いやだってもう片付いてるじゃん」

「片付けたのは私たちです!」

 灯子の声が境界路地に響いた。夕方の蝉がびっくりして一斉に鳴き止んだ。

 閻魔丸はきょとんとした顔で灯子を見て、それから、ふっと笑った。

「灯子って、怒ってるときの顔が一番生き生きしてるよね」

「それで誤魔化されると思ってるんですか!」

「思ってないよ。ちゃんと書類、見るようにする」

「本当に?」

「……見ようとするよう、努力を検討する」

「弱まってる!」

 さだがくすくす笑っていた。ぽん太が湯呑みの陰で肩を震わせていた。

 灯子は大きく息を吐いた。怒りはまだくすぶっていたが、笑いがその横から顔を出してきていた。こういう男に本気で腹を立て続けるのは、難しい。

 縁側に夕暮れが滑り込んでくる。境界路地の空は現世よりほんの少し深い橙で、どこかなつかしい匂いがした。

 閻魔丸がお茶をすすりながら、何でもない顔で言った。

「そういえば、朔のこと聞きたかったんじゃなかったっけ」

 灯子は顔を上げた。

「なんで知ってるんですか」

「ん〜、まあね」

 閻魔丸は笑ったまま、湯呑みを置いた。その笑顔の奥に、いつもと少しだけ違う色が混じっていた気がして、灯子は背筋をわずかに正した。

「あの子はね」

 閻魔丸が言いかけたとき、路地の方から声がした。

「あの、すみません。相談したいことがあって来たんですが」

 藤代朔が、夕暮れの中に立っていた。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

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大混乱!冥界の繁忙期「お盆前倒し」

夕凪 一葉

2026-06-03

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第22話 大混乱!冥界の繁忙期「お盆前倒し」 - 笑う閻魔と、三丁目の相談所 | 福神漬出版