冥界の転生台帳室は、現世で言えば薄暗い土蔵の奥のような場所にあった。
棚が天井まで続き、その棚という棚に木簡や竹简、和紙を束ねた帳面、さらには時代の下ったものでは薄っぺらい綴じ本まで、あらゆる形の記録物がみっしりと詰め込まれている。紙とも植物ともつかない独特の匂いが漂い、灯子は思わず鼻の頭を押さえた。
「これ全部、転生の記録なんですか」
「そうだ。この宇宙に生まれたすべての魂の分がある。数えたことはないが」
閻魔丸は、珍しく両手を帯に挟んだまま、まっすぐに棚を見上げていた。いつもならこの手の作業は灯子に押しつけて縁側でかき氷でも食べているはずなのに、今日は違った。さだが関係していると聞いた瞬間から、その大きな丸い目に、ほんの微かな、しかし確かな真剣の色が宿った。
「さだは、三百年いてくれた」
それだけ言って、閻魔丸は奥の棚へ向かった。灯子は黙ってその背中についていった。
台帳室の管理を任されている書記の鬼が、分厚い名簿を次々と運んできた。魂の識別番号で検索するのだというが、その番号自体が一種の古語で記されており、灯子には読めない。閻魔丸が古い文字を指でなぞりながら音読し、灯子がそれを現代語に変換して手元の紙に書き留めるという、奇妙な共同作業が始まった。
「喜助の最後の在籍が江戸末期。識別は……これだ」
閻魔丸が示した文字列を、灯子は慎重に書き写す。続いて明治期の転生台帳。喜助の魂の番号が、別の名前の欄に現れた。
「『伊東繁』。明治三十一年生まれ、昭和二十年没」
「戦死か」灯子は声を落とした。
「続きを見ろ」
昭和三十年代の台帳。今度は女性として転生していた。
「『宮田きよ』。昭和二十九年生まれ、平成八年没」
「あの魂は、行きつ戻りつしておるな」と閻魔丸が呟いた。「一つの生で縁を全うしきれなかったとき、魂は次の転生で似た縁の近くに生まれようとする性質がある。引力のようなものだ」
灯子は手を止めた。
「それって……もしかして、さだのことをずっと探してたってこと、ですか。転生のたびに」
閻魔丸は答えなかった。が、台帳をめくる指がわずかに速くなった。
平成の台帳に移ると、転生記録の形式が変わった。コンピューターで打ち出されたらしい薄い紙が、几帳面にファイルされている。冥界も時代には逆らえないらしい。灯子は内心で苦笑しながら、番号を目で追った。
「あった」
思わず声が出た。
「喜多村義助」。昭和二十七年生まれ。現住所、三丁目。
三丁目。あの、境界路地のある町。
「閻魔丸さん」
「見えている」
閻魔丸の声は低く、静かだった。いつものとぼけた軽さが、今この瞬間だけ、完全に消えていた。
灯子は喜多村義助の記録をすべて書き写した。七十三歳。独居。かつては建具職人で、今は引退して三丁目の路地裏に住んでいるという。転生のたびに職人仕事に就いている、とひとこと注記がついていた。喜助が生前、木工の職人だったことを灯子は思い出した。
台帳室を出ると、廊下にさだが立っていた。
いつもなら縁側でお茶を淹れながら待っているはずなのに。廊下の端、窓もない壁際で、両手を胸の前で小さく握り合わせて、ただじっと立っていた。
灯子は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
代わりに、手に持った紙を差し出した。
「さださん。喜助さんの転生先、わかりました」
さだは紙を受け取った。その手が微かに震えているのを、灯子は見ないふりをした。
しばらくの沈黙。
さだの目が文字の上で止まった。
「……義助さん」
三百年を生きた幽霊の声が、かすかに、しかし確かに揺れた。
たったそれだけの呟きなのに、灯子は胸の奥をぎゅっと掴まれたような気がして、思わず唇を結んだ。名前が変わっても、ただ「さん」をつけて呼んだその声の中に、三百年分の待ち時間が全部、詰まっていた。
「喜助、というお名前だったのですね」灯子はそっと言った。「江戸の頃の」
「ええ」さだは静かに微笑んだ。「大工の息子でしてね。不器用なくせに細かい仕事が好きで、指ばかり怪我して……わたしが包んであげるたびに、ありがとう、ありがとうって、それはもう」
さだは笑った。笑いながら、目が赤くなっていた。
「三丁目にいるんですね。ずっとそばにいたんですね」
灯子はうなずいた。それ以上何も言えなかった。
その夜、相談所の縁側に三人が並んだ。冥界の空は現世と少しだけ季節がずれていて、今夜は晩秋の気配が漂っていた。虫の声が遠く聞こえた。
「問題は」灯子は冷えた茶を一口飲んで言った。「今の義助さんは、何も知らないってことです。向こうには転生の記憶はない。さださんのことも、喜助だった自分のことも」
「そうでございますね」さだは静かにうなずいた。「それは……わかっております」
「会いに行くとして、何を言うんですか。あなたの前世は江戸の大工でしたって? わたしはその頃から三百年待っていた幽霊ですって?」
「灯子」閻魔丸が口を開いた。「その前置きは要らん」
「は?」
「縁が本物なら、言葉で説明せんでも引っかかるものがある。魂の話だ」
灯子は閻魔丸を見た。相変わらず丸っこい顔に、今夜はどこか遠くを見るような目があった。
「……閻魔丸さん、もしかしてさださんと喜助さんのこと、前から知ってたんですか」
一瞬の間があった。
「書類が多くて見落としがちなだけだ」
灯子は何か言いかけて、やめた。
翌朝、相談所に藤代朔が現れた。いつものように音もなく引き戸を開けて、いつものように縁に腰を下ろして、いつものように何でもない顔をして言った。
「喜多村さんのこと、知ってますよ」
灯子は目を細めた。
「またですか、あなたは」
「三丁目の路地裏の突き当たりに住んでるでしょう。毎朝六時に表に出て、縁側の木を素手で撫でるんです。木の具合を確かめる癖が、どうしても抜けないんだって、本人も不思議がってる」
さだが縁側の柱を握った。きつく、静かに。
「会わせてやれますか」灯子は朔を見た。「向こうが嫌がらなければ」
「嫌がらないと思います」朔は少しだけ笑った。「なんとなく、そう思います」
その「なんとなく」が信用できるのか、と灯子は思った。が、今は信じるしかなかった。
午後の光が、境界路地の石畳に長く斜めに差し込んでいた。さだは縁側に座って、三百年ぶりの名前を繰り返すように、声にならない口の動きで「義助さん」と呼んでいた。
灯子はその横顔を見ながら、縁というものの、恐ろしいほどの執念を思った。人の形を変え、名前を変え、時代を越えても、魂はただ同じ場所へ戻ろうとする。引力と呼ぶには余りにも切実な、それは祈りに近い何かだった。
そして同時に、灯子は気づいた。
朔が今朝また来た。喜多村義助のことを知っていた。偶然ではないはずだ。三丁目に縁が動くとき、朔は必ずそこにいる。
前話で問い詰めたとき、朔は「準備ができていない」と言った。
準備、というのは何の準備なのか。自分が何者かを告げる準備なのか。それとも——もっと大きな、何かが始まる準備なのか。
虫の声がまた、少し近くなった気がした。