境界路地に秋が来ると、いつも少しだけ遅れる。
現世の三丁目ではもうすっかり金木犀が散って、八百屋の店先に里芋が積み上がっているというのに、冥界側の路地にはまだ残暑の名残のような空気が漂っていた。相談所の縁側に腰を下ろした灯子は、色褪せた暦を眺めながら湯呑みを傾けた。骨川さだが「体が冷えますよ」と言って置いていった麦茶は、すでにぬるくなっていた。
灯子が手元のノートを開く。
大学ノートの一冊を、彼女は先月から「朔観察日誌」に充てていた。弁護士時代の癖で、何か気になることがあると記録を取らずにはいられない。書くことで頭が整理される。書くことで見えていなかったものが輪郭を持ちはじめる。
藤代朔が相談所に現れるのは、だいたい週に一度、曜日も時間もまちまちだ。やってきては「ちょっとお邪魔します」と言い、依頼とも雑談ともつかない話をして、閻魔丸にからかわれ、ぽん太に怯えられ、さだに茶菓子を押し付けられて帰っていく。
問題は、その後だ。
灯子が気づいたのは三回目の来訪の翌日だった。路地の入り口に近い豆腐屋の老夫婦が、十数年音信不通だった息子と偶然再会したという話を聞いた。四回目の翌日には、独居の元教師が教え子に声をかけられ、週に一度の昼食会が始まった。五回目の後には、看板犬が迷子になった焼き鳥屋の女将が、それをきっかけに向かいの花屋の若主人と仲良くなった。
偶然というには、多すぎる。
ノートには日付と出来事が几帳面に並んでいた。灯子は鉛筆の先で表の端を叩きながら、つぶやく。
「十一件。三ヶ月で十一件」
「何が十一件ですか」
背後から声がして、灯子は振り向いた。引き戸の前に、藤代朔が立っていた。薄手のジャケットの衿を立て、片手に何かの紙袋を提げている。日が傾き始めた逆光の中で、その輪郭はいつも通り、妙にあやふやだった。
「ちょうどよかった」と灯子は言った。
「よかった、というのは……嬉しいような、怖いような」
「座って。今日はあなたに聞きたいことがある」
朔は素直に縁側の端に腰を下ろした。紙袋の中には、三丁目の和菓子屋の栗饅頭が入っていた。さだへの土産らしい。
灯子はノートを広げ、彼の前に置いた。
「あなたが来るたびに、三丁目の誰かの縁が動く」
朔は表を眺めた。眉一本、動かなかった。
「例えば」と灯子は続ける。「先月の十四日。あなたが帰ったあと、豆腐屋の倉橋さんの息子が突然現れた。息子さんは長崎にいたはずで、理由を聞いたら『なんとなく母親の顔が見たくなった』と言っていたらしい。その前日に息子さんと話しましたか」
朔は少し間を置いた。
「……商店街で、偶然すれ違いました。ちょっと立ち話をしただけです」
「何を話しましたか」
「倉橋のお豆腐、おいしいですよね、という話と……お母さん、最近元気ですか、と」
灯子はノートに小さく書き足した。
「やっぱり」
「やっぱり、って」
「意識してるんですか。それとも無意識ですか」
朔はしばらく黙った。縁側の向こうで、冥界側の路地に提灯が一つ、ぼんやり灯った。夕刻の合図だ。
「……半々、くらいです」
答えが返ってきたことに、灯子は少し驚いた。いつもは煙に巻くような笑みで「さあ」とか「どうでしょう」とかごまかす朔が、今日は違った。
「どういうことですか、半々というのは」
「意識してやっているつもりはないんですが、気がつくと、ああこの人とこの人は会ったほうがいいな、と思っている。で、ちょっとしたきっかけを作る。背中を押す、というより……小石を転がす感じです。転がるかどうかは、その人たち次第で」
「小石を転がす」
「転がらないこともありますよ。十一件と書いてありますけど、私が関わってうまくいかなかったのも、同じくらいあると思います」
灯子はその言葉を聞いて、少し考えた。確かに、記録したのは「動いた」ものだけだ。動かなかったものは見えていない。
「それは……いつからやっているんですか」
「覚えていないくらい、前から」
「仕事ですか」
朔は苦笑した。
「趣味みたいなものです」
その笑い方が、いつもと少し違った。遠いものを見るような、懐かしむような、あるいは少しだけ寂しそうな笑顔だった。
灯子は湯呑みを置いて、朔を正面から見た。
「もしかして」
「はい」
「あなたも、冥界の人間ですか」
縁側に、沈黙が落ちた。
路地の提灯が風もないのに揺れた。屋内から骨川さだの「あら、朔さんいらしたんですか」という声が聞こえてきたが、どちらも返事をしなかった。
朔の顔から、笑みが消えた。
それは一瞬のことだった。消えたと思ったら、すぐにまた戻ってきた。でも灯子の目は誤魔化せない。三十二年間、人の表情を読んで生きてきた目だ。
「……どうして、そう思うんですか」
「あなたは生死が曖昧すぎる。死んでいるにしては存在感があるし、生きているにしては影が薄い。三丁目の人たちはみんな朔さんのことを知っているけど、誰も詳しいことを知らない。そして」灯子は少し声を落とした。「人の縁が見える。それも、かなり精度よく」
「縁が見えるのは、灯子さんもじゃないですか」
「私は半死半生だから特殊なんです。あなたには、そういう事情があるんですか」
朔はしばらく、縁側の板目を見つめていた。
庭先の古い柿の木から、葉が一枚落ちた。それが地面に着くまでの時間が、妙に長く感じられた。
「……今日は」と朔はようやく口を開いた。「その話は、もう少し後にしてもいいですか」
「なぜですか」
「準備が、できていないので」
その言葉は、あまりにも素直すぎた。
煙に巻くのでもなく、誤魔化すのでもなく、ただ「準備ができていない」と言った。それが返ってきたとき、灯子は追いかけることをやめた。弁護士の勘が、ここで押してはいけないと告げていた。
「わかりました」と灯子は言った。「でも、いつかは聞きます」
「……それは、まあ」朔は少し表情を和らげた。「そうでしょうね」
引き戸が開いて、骨川さだが顔を出した。
「朔さん、栗饅頭ですか。嬉しいこと。ぽん太さんに「来客です」とお伝えしたら、また緊張して腰が抜けたみたいですよ。まったく、あの子は」
「腰が抜けるって、鬼に腰はあるんですか」と灯子は言った。
「あるかどうかはわかりませんが、倒れていますよ」
廊下の奥から、どすんという音がした。
その騒ぎで場の空気が変わった。灯子はノートを閉じ、朔は紙袋を縁側に置いた。何事もなかったように、いつもの夕方が始まった。
ただ一つだけ違うことがあった。
朔が相談所を出るとき、灯子は玄関先でその背中を見送りながら気づいた。今日は朔が来てから二時間近く経つ。なのに、彼はまだ「小石を転がしていない」。
三丁目の路地に向かって歩いていく朔の横を、錆びた自転車に乗った中年の男が通り過ぎた。その瞬間、朔がほんの少し振り向いた。男の自転車の荷台から、何か紙切れが落ちた。朔がさりげなく拾い、男に声をかける。
男は驚いた顔をして、礼を言い、受け取った紙切れを見下ろした。何かを思い出したような顔をした。
それだけだった。
灯子はその光景を見て、ノートをもう一度開いた。今日の日付のページに、小さく書き加える。
「小石、一個」
夕暮れの路地に、金木犀の香りが遅れてやってきた。