盆路地市の喧騒が、ようやく遠くなった。

 境界路地の木造平屋は、昨日まで提灯と人混みで揺れていたのが嘘のように静まり返り、軒先に吊るしたままの風鈴だけが、どこからともなく吹き込む風にかすかに鳴いていた。冥界側の空気はいつも少し重く、湿っていて、それでも灯子はこのところその重さに慣れてきた自分に気づく。慣れることへの居心地の悪さも、すこしずつ薄れてきている。

 ——いつでも戻れる。

 さだの言葉は、胸の奥に小骨のように引っかかったまま溶けなかった。賃貸契約が生きている。月に一度、誰かが換気に来ている。灯子は縁台に腰かけてぬるい番茶を啜りながら、「誰が」という問いを意識的に遠ざけた。考え始めると足がすくむ。今はまだ、そちらの扉を開ける気になれなかった。

 相談所の奥から、静かな物音がした。

 さだが畳を拭いている音だ。丁寧に、規則正しく。三百年間そうしてきたように。

「さださん、それ昨日も拭いてましたよね」

「畳は毎日拭くものでございます」

 振り向きもせずに答える声は穏やかだが、有無を言わせない。灯子は苦笑して番茶を置いた。

 そのとき、相談所の引き戸がからりと開いて、ぽん太が転がり込んできた。文字通り転がり込んできた。入り口の段差に角の片方を引っかけ、仁王像のような巨体が畳に突っ伏す。

「いったあああ……」

「こら、また廊下を走って」

「緊急でございます! 緊急案件でございます!」

 さだが雑巾を持ったまま眉を上げる。灯子も立ち上がった。ぽん太が緊急と言うときは大抵、閻魔丸が書類を部屋中に撒き散らしているか、冥界本部から妙な通達が来たかのどちらかだ。

「どっちの緊急?」

「えっと……両方、かもしれません」

 最悪だ、と灯子は思った。

 奥の執務室では、閻魔丸が床に大判の巻物を広げ、その上に腹ばいになって虫眼鏡を覗き込んでいた。着流しの裾がはだけ、だらしなく足を開いている。冥界最高権力者の所作とは到底思えない。

「あーおった、灯子ちゃん」

「広げっぱなしにしないでください、その書類。踏んだら怒りますよ」

「踏んでも別にいいぞ、こっちは」

 閻魔丸がにやにやしながら巻物を持ち上げた。何百年分かの埃が舞い上がり、灯子は盛大にくしゃみをした。

「本部から来た。久しぶりに本部から正式な書類が来た。珍しいことに、おれの笑いのツボには全然刺さらない内容でな」

「笑いのツボを基準にしないでください」

「読んでみ」

 渋々受け取った巻物を広げると、達筆すぎて読みにくい冥界文字がずらりと並んでいた。灯子は眉を寄せながら解読する。冥界語は赴任三ヶ月でなんとか読めるようになったが、古語交じりの公文書はまだ難儀する。

 読み進めるうちに、灯子の手がわずかに止まった。

 ——「未決縁案件の精査を要請する。とりわけ、三百年以上の長期滞留案件については、至急の対応を求める。該当幽霊の成仏期限について、本部は改めて検討を開始した」

 最後の一行を、灯子は声に出して読み直した。

「……さださんのことですか」

 閻魔丸は珍しく、笑わなかった。

「おそらくな」

 灯子が振り返ると、さだがいつの間にか入り口に立っていた。雑巾を手に持ったまま、表情はいつもと変わらない。穏やかで、柔らかくて、三百年分の何かを内側に畳み込んだ顔。

「聞こえておりました」

「さださん……」

「ちょうどよいかもしれません」とさだは言った。「灯子さんに、お話しすることがあると思うておりましたから」

 縁台に腰かけて、さださんが話し始めた。

 江戸の中ごろのことだ、とさだは言った。自分はその頃、三丁目よりもう少し川に近いところの小さな荒物屋の娘だった。二十三の年に、一つ年上の男と知り合った。名は浅吉といい、日本橋の瀬戸物問屋の手代だった。不器用で、少し頼りなくて、それでも人の話をよく聞く男だった。

「約束をしたんでございます」

 さだの声は揺れなかった。ただ、風鈴が一度、静かに鳴った。

「私が流行り病で床に伏せったとき、浅吉さんが言いました。死ぬな、と。どこへ行っても追いかける、また必ず逢う、と。私は逝きかけながら笑って、ならば逢いましょう、と言いました。それが最後でございました」

「でも、さださんは幽霊として……」

「約束があったから」

 ただそれだけのことだった、とさださんは言った。笑みの形は穏やかで、三百年の歳月を積んだ顔には、悲しさよりも何か温かいものが宿っていた。

「ところが浅吉さんは、私が逝った翌年に自分も逝きました。そして転生いたしました。何度も、何度も」

「何度も?」

 灯子が問うと、閻魔丸が口を挟んだ。

「転生を重ねると、記憶は薄れる。大抵は三回も生まれ変わりゃ前世のことなど何も残らん。そのおっさん……浅吉とかいうやつは、もう七回転生してる」

「七回」

「灯子ちゃん、それよりこっちを見ろ」

 閻魔丸が指差す先に、小さな台帳があった。転生記録だ。灯子はそれを手に取り、ページを繰る。最後の記録に目が止まった。

 現在の転生先。年齢、二十八歳。職業——

 灯子の目が丸くなった。

「……藤代朔」

 名前を読み上げた途端、相談所の空気がぴんと張った。

 藤代朔。毎週この相談所に現れて、依頼とも世間話ともつかない話を持ち込む青年。生きているのか死んでいるのか判然としない、あの。

「まさか」

「さあな」と閻魔丸は肩をすくめた。「おれにも確証はない。ただ、あの青年がここへ引き寄せられるように来るのには、理由があるんだろうとは思っとる」

 灯子はさだを見た。さださんは、ただ静かに前を向いていた。その目が、どこか遠い場所を見ていることに気づいた。三百年前の川べり、流行り病の床、約束の言葉——見ているのはそういう場所だろうと、灯子には思われた。

「さださんは知ってたんですか、藤代さんのことを」

「うっすらと、感じてはおりました」とさだは言った。「でも確かめるのが怖うございました。違ったら……もし違うなら、この三百年が、本当にただの意地になってしまう気がして」

 灯子は番茶の湯呑みを両手で包んだ。温度は、とっくに冷めていた。

 おかしなことに、この瞬間、灯子の頭は弁護士として動き始めていた。証拠を集める。事実を確認する。当事者に話を聞く。論点を整理する。そのうえで——どう縁を、繋ぐか。

 これまで灯子は、相談所の仕事を「流れに乗ってこなしている」と思っていた。自分から望んでやっている仕事ではない、という薄い言い訳が、いつも心の隅にあった。帰れる部屋がある。賃貸契約が生きている。いつでも戻れる。だからここにいるのは仮のことで——

「成仏させてあげたい」

 声に出てから、自分でも驚いた。

 閻魔丸が目を瞬かせた。ぽん太が廊下でひそかに涙をぬぐう気配がした。さだは、ゆっくりとこちらを向いた。

「さださんを」と灯子は続けた。「三百年も待たせた約束を、ちゃんと届けさせてあげたい。それが私の、今の仕事です」

 自分の口から出た言葉が、少し信じられなかった。でも嘘ではなかった。

 さださんは、はじめて少し目を細めた。笑みではなく、何かが緩んだような顔だった。

「ありがとうございます」と、さだは言った。「ならば一つ、お願いがあります」

「なんでも言ってください」

「藤代さんに話を聞くとき」とさだは静かに言った。「私のことは、まだ言わないでほしいのです。あの方が、本当に浅吉さんかどうか——それは、あの方自身が気づかなければ意味がないと思いますから」

 灯子は少しの間、考えた。

「わかりました」

 返事をしながら、灯子の中でひとつの歯車がかみ合った音がした。

 藤代朔が次に相談所の引き戸を開けるのは、おそらく来週だ。そのとき灯子は、依頼人として彼と向き合う。でも本当の案件は、彼自身も知らないところにある。

 縁とは、こういうものなのかもしれなかった。当人が気づく前から、すでに動いている。三百年前から、すでに始まっている。

 風鈴が、また一度鳴った。

 今度はなぜか、その音が少し違う色をしていると、灯子は思った。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

14

冥界最古の案件:三百年の約束

夕凪 一葉

2026-05-26

前の話
第14話 冥界最古の案件:三百年の約束 - 笑う閻魔と、三丁目の相談所 | 福神漬出版