煙の匂いがした。
焼き鳥でも線香でもない、もっと曖昧な、懐かしいような怖いような匂いだ。灯子が相談所の引き戸を開けると、境界路地の空気がいつもと違う質感で入り込んできた。夏の終わりを知らせる風に混じって、三味線の音がどこか遠くから糸を引くように漂っている。
「あら、灯子さん。今日は早いですねえ」
縁側に腰を下ろしたさだが、盆提灯を膝の上でくるくると回しながら顔を上げた。三百年分の皺が月明かりのように和らいで見える夜だった。
「早いって、もう昼ですよ。さださん、またそこで昼寝してたんですか」
「昼も夜も、あたしにはあんまり関係ありませんで」
さだがのんびり答えた瞬間、路地の奥から何かが弾けるような音がした。ドン、と腹に響く太鼓の音。続いて笛。そして、どっと湧く人声。
灯子は思わず草履のまま路地へ飛び出した。
境界路地が、変わっていた。
昨日まで何もなかった石畳の両脇に、いつの間にか屋台がずらりと並んでいる。赤い提灯が連なり、足元には青白い鬼火が手持ち花火のように揺れている。店を出しているのは、誰もかれも幽霊だ。透けているから一目でわかる。しかし彼らは至って真剣な顔で焼きそばをひっくり返し、金魚ならぬ青白い魂玉をすくう露店を構え、現世では見たことのない菓子を並べている。
「盆路地市でございますよ」
いつの間にか横に立っていたさだが、誇らしそうに胸を張った。
「ねん、に、いちど」灯子はゆっくり繰り返した。「こんなのがあるなら先に言ってください。心の準備が」
「準備なんぞしたら面白くありませんよ」
さだはけらけら笑って、杖をつきながら路地へ降りていった。
灯子はしばらく立ち尽くした後、人の流れに押されるように歩き始めた。屋台の客は幽霊だけではない。現世の人間らしき姿も混じっている。うろんな顔をして金魚を眺めているサラリーマン、子供の手を引いて焼きとうもろこしを買うお母さん。彼らはおそらく、何かの拍子に境界路地へ紛れ込んでしまったのだろう。不思議そうにしてはいるが、さほど怖がっている様子もない。盆の時期の下町の空気というのは、生者と死者の区別をふわりと溶かしてしまうのかもしれない。
「灯子さーん!」
野太い声がして振り向くと、ぽん太が揃いの法被を着て露店の前に立っていた。屋台の看板には「亡者の口どけ最中」と書いてある。
「ぽん太、何やってるんですか」
「今日だけの特別出店です!ぼく、ちゃんと笑顔で接客してますよ!」
ぽん太は鬼の形相のまま、渾身の笑顔を作った。凄まじい迫力だった。前の客が三歩退いた。
「……笑顔の方向性は引き続き要検討ですね」
「でも誰も泣いてないです!」
「それは正解です」
灯子は複雑な顔で合格の印に親指を立て、路地の奥へ進んだ。最中は素直においしそうだった。
しばらく歩くと、路地の突き当たりに藤代朔がいた。縁台に腰かけて、ひとり串団子を食べている。見慣れた白いシャツが、提灯の灯りで橙色に染まっていた。
「珍しい。藤代さんが先に来てる」
「今日は誘われた気がしたんで」朔が淡々と答えた。「誰かに、ではなくて。この路地に、というか」
「わかるような、わからないような」
「灯子さんも来たじゃないですか」
灯子は団子を一本分けてもらって隣に座った。甘さが舌に広がる。不思議なことに、半死半生の体でも味覚だけははっきりしている。生きていることの名残が、一番頑固に残っているのが味覚なのかもしれない、と灯子はぼんやり思った。
「なあ藤代さん、盆路地市って毎年あるんですか」
「さあ。ぼくも今年が初めてです」
「二人とも初めてか」
太鼓の音が続いている。路地の向こうから、誰かが河内音頭を歌い始めた。音程は外れているが、楽しそうだった。
灯子が串を置いたとき、さだが静かに近づいてきた。杖の音が祭りの喧騒に紛れて、最後の一歩まで気づかなかった。
「灯子さん、少しよろしいですか」
さだの声は、いつもより低かった。
二人は人波を離れ、相談所の裏手にある小さな縁側に腰を下ろした。そこだけ、祭りの音がひと皮むけたように静かだった。さだは懐から折りたたんだ紙を取り出した。現世の書式で印刷された、賃貸借契約書だった。
「これは」
「灯子さんの現世のお部屋のものです。三丁目から少し離れた、あの五階建てのマンション」
灯子の喉が詰まった。
「まだ、契約が生きているんです。家賃も、どういうわけか引き落とされ続けておりまして。どなたかが手続きをしておらんのでしょうねえ」
「誰が」
「おそらくはご家族か、あるいは事務所の方か。灯子さんが半死半生のまま時間が止まっておりますから、解約の手続きに踏み切れないのでしょう」
灯子は契約書を受け取った。自分の名前と住所が、隷書体で印字されている。見慣れた書体。見慣れた住所。鍵を差し込むと少し固かった、あの玄関の感触まで指先に蘇った。
部屋はまだある。
家賃が払われ続けている。誰かが、まだそこに自分が帰ってくることを、あきらめていない。
「現世の時間で言えば、もう半年以上になりますよ」さだが続けた。「ご友人の方が、先月も一度お掃除に来られたそうです。換気して、冷蔵庫を空にして。それだけして帰られたと」
「……誰から聞いたんですか」
「亡くなった方の情報を集めるのは、この仕事の基本でして」
さだはそれだけ言って、少し間を置いた。
「灯子さん」
「はい」
「いつでも戻れますよ」
ひっそりと、しかしはっきりと言った。灯子は顔を上げなかった。提灯の灯りが風に揺れて、縁側に影が揺れている。
「あなたは半死半生ですから、現世へ戻る道が完全に閉じたわけではありません。閻魔様が本気で動けば、あるいは」
「閻魔が本気で動いたところ、見たことありません」
「それは確かに」さだが苦笑した。「でもね、灯子さん。あの部屋が残っている間は、選択肢があるということです。あたしはそれをお伝えしたかっただけで。急かしているわけじゃありませんよ」
灯子は黙って夜空を見上げた。境界路地の空には星がない。代わりに提灯が連なって、橙色の天の川みたいに見える。それはそれで美しかったが、本物の星ではない。
お祭り気分に浮かれていた気持ちが、するすると落ち着いていく。腹の底に、重くて温かい何かが沈んでいくような感覚だった。
部屋。換気。冷蔵庫。
誰かが月に一度、自分のいない部屋を開けて、空気を入れ替えている。
それが怖かった。怖いというのは語弊があるかもしれないが、別の言葉が出てこなかった。もし今すぐ戻れると言われたら、自分は喜んで戻るだろうか。それとも、少しだけためらうだろうか。ためらうとしたら、それはここに残した何かがあるからではないか。
「さださん」
「はい」
「閻魔は、このこと知ってますか」
さだはしばらく答えなかった。
「さあ。あの方は書類仕事が大嫌いですから、見ていても読んでいないということがしばしばございますねえ」
「……全然答えになってない」
「ふふ。でも灯子さん、今夜は祭りです。難しいことは、後でも考えられますよ」
さだはよっこいしょと立ち上がり、杖をついて路地へ戻っていった。河内音頭がまた湧き上がった。今度は音程が合っていた。
灯子は一人、縁側に座ったまま、契約書を折りたたんで胸ポケットにしまった。
その拍子に、奥の部屋から声がした。
「おーい灯子ー、焼きそば買ってきてくれ、わたあめも、あと何か面白そうなやつ全部」
閻魔丸だった。
灯子は深く息を吸って、立ち上がった。
「自分で買いに行ってください」
「書類がある」
「どうせ読んでないでしょう」
沈黙があった。
「……おまえは怖いな灯子、相変わらず」
「光栄です」
灯子は草履を履き直して、祭りの中へ歩き出した。提灯の橙が揺れている。遠くでぽん太が何かに失敗して謝る声がした。朔はまだ縁台にいるだろうか。
胸ポケットの中の、折りたたまれた紙が、心臓の近くで微かに重い。
いつでも戻れる、とさだは言った。しかし今夜の灯子には、その「いつでも」がどこか遠い国の話のように感じられた。それがなぜなのか、まだうまく言葉にできなかった。
河内音頭が、夜の路地に響き続けている。