夜が終わるのに、空はまだ迷っているようだった。
東の稜線が白み始めても、星座の消えた夜空には色が戻らない。灰色の布を引き伸ばしたような朝が、旧市街の石畳に斜めに落ちていた。蒼汰は一晩中まどろんだだけで目を覚ました。瞼の裏に昨夜の光の雨がこびりついていて、眠ることよりも目を閉じていることのほうが怖かった。
老師のもとへ向かうつもりだったが、足はなぜか別の方へ動いた。
記憶が体の奥に刻まれているとしたら、足裏にも記憶があるのだろうか。そんなことを考えながら、蒼汰は自分でも気づかないうちに旧市街の奥へと踏み込んでいた。観測塔の影が届かない場所、百年前に建てられ今はもう使われていない廃観測所の跡地。壁の半分が崩れ、蔦に飲み込まれた石造りの建物が、朝霧の中に沈んでいた。
その軒先に、人が倒れているのを見た。
最初は見間違いだと思った。白い衣のようなものが、石畳の隙間に咲いた草花に交じって、風もないのに揺れていた。しかし二度見て、三度見て、蒼汰は走り出していた。
少女だった。
年の頃は蒼汰と変わらないか、少し若いか。髪は薄い灰色で、肌は紙のように白く、唇にだけ青みがかった色がある。倒れているというより、ここに落ちてきたというほうが正確な気がした。着ているものは衣とも布とも判然としない、光沢のない白いもので、夜露に濡れてぴたりと体に張り付いている。
蒼汰は膝をついて耳を近づけた。息がある。かすかだが、確かにある。
「おい」
呼びかけると、少女の睫毛が震えた。それだけだった。
「起きろ。ここは朝晩冷える。このまま寝ていたら死ぬぞ」
もう一度声をかけると、今度は違った。少女の体がびくりと跳ね、まるで石の上に落とした水滴のように弾けた。目が開く。虹彩の色が、蒼汰には判断できなかった。灰とも藍とも言えない、星座の消えた後の夜空に似た色だと思った。
その瞳が、蒼汰を映した。
「……あ」
少女が声を出した。声というより、音だった。意味を持とうとしていない音が、口から零れた。
「立てるか」
少女は答えなかった。蒼汰の顔を見ていた。見ているのか、見ているものが蒼汰の背後にあるのか、判断しがたいまなざしだった。
「名前は」
それを聞いた途端、少女の顔が変わった。苦しいというより、途方に暮れた顔だった。子どもが、自分が何を探していたかを忘れてしまった顔に似ている。
「……わからない」
今度は言葉だった。確かに言葉として形をなした返答が、かすれた声で落ちてきた。
「記憶は」
「……ない」
蒼汰は一瞬、昨夜のことを思った。光の雨。落下する星座の欠片。霞鳥の警告。手を伸ばしてはいけないと言われた、あの輝く破片たち。
地図師の見習いとして積み上げてきた知識が、静かに答えを出した。
記憶の欠片が凝集することがある、と天弦老師から聞いたことがあった。それは書物の中の話で、何百年も前の記録にしか残っていない現象で、現代では起こりえないとされていた。記憶は人が死んだあとに星座へと昇華し、夜空の一部になる。途中で落ちることはない、と教わった。
でも昨夜、星座は落ちた。
そしてこの少女は、ここに「落ちて」いる。
「……お前は」
蒼汰は言葉を選んだが、うまく選べなかった。
「お前は昨夜、ここに降ってきたのか」
少女は目を細めた。理解しようとする顔だった。
「降ってきた」と彼女は繰り返した。「そう、かもしれない。でも、わからない。始まりがどこかわからない。気づいたら、ここにいた」
その言い方が、蒼汰の胸に何かを刺した。気づいたら、ここにいた。それはまるで、自分の幼少期の空白を言葉にしたようだと思った。蒼汰には幼い頃の記憶がない。地図に写そうにも何も出てこない白紙の頁がある。始まりを持たないということが、どういう感覚か、蒼汰には体の底でわかる気がした。
「名前がないのは不便だ」
蒼汰は立ち上がり、少女に手を差し伸べた。
「俺がつけてもいいか」
少女は差し出された手を見た。受け取り方を知らないような目で、しばらく見ていた。それから、ゆっくりと自分の手を重ねた。ひどく冷たかった。石の冷たさではなく、まだ温度を知らない冷たさだった。
「零花」
蒼汰は言った。思いついた言葉ではなく、口から出てきた言葉だった。
「零れた欠片から生まれた花だから、零花。気に入らなければ変えていい」
少女は「零花」と小さく言った。自分の舌でその音を確かめるように、ゆっくりと。
「……悪くない」
それが、零花の最初の評価だった。
◇
宿舎へ向かう道すがら、零花は一度も転ばなかったが、一度も蒼汰の手を離しもしなかった。世界の歩き方を知っているのに、世界との繋がり方を知らない、そういう歩き方だった。
旧市街の石畳は不規則で、慣れていない者には歩きにくい。蒼汰がやや段差のある箇所を踏み越えた時、零花が不意に立ち止まった。
「どうした」
「……今」
零花は何かを探すように胸元に手を当てた。
「今、あなたが、何か思った」
蒼汰は首を傾けた。
「何を」
「石畳の、凸凹が懐かしいと。でもその懐かしさは、あなたのものではなくて……ここの、記憶に染み込んでいるもので……」
零花は言葉を失った。うまく言語化できないのではなく、感じていることが多すぎて言葉が追いつかない顔だった。
「俺はそんなことは考えていなかったが」
「ごめんなさい」
零花は小さくなった。「わからないの。どこまでがあなたで、どこからが私で。あなたの近くにいると、何かが流れ込んでくる。でもそれが何なのか、私には名前がない」
蒼汰は少し考えた。
地図師の訓練で、他者の記憶の痕跡を読む技術を学ぶ。記憶は場所にも物にも人にも染みる。零花が記憶の欠片から生まれたなら、彼女はその読み取りを制御できない状態で行っているのかもしれない。
しかしそれ以上に蒼汰が気になったのは、零花の「わからないの」という言葉に滲んだ何かだった。
困惑ではない。悲しみでもない。自分の内側で何かが起きているのに、それを呼ぶ言葉を持っていない者の、静かな途方暮れだった。
「流れ込んでくるのが嫌か」
「……嫌、という感覚がどういうものかわからない」
「じゃあ、怖いか」
「怖い、も」
蒼汰は歩き出した。手を繋いだまま。
「そのうちわかる」
自信があって言ったわけではなかった。ただ、言わなければいけない気がした。
「俺の地図にも白紙のページがある。幼い頃の記憶が何もない。それがどういうことなのか、ずっとわからなかった。今もわからない。でも、わからないままでも歩いてきた」
零花は蒼汰の横顔を見た。追体験ではなく、おそらく初めて、自分の目で誰かを見る顔だった。
「あなたは、怖くなかったの」
「怖かった」
蒼汰は答えた。
「でも怖いってわかったのは、だいぶ後になってからだ」
零花は何も言わなかった。ただ、繋いだ手に少しだけ力を込めた。それが何を意味するのか、彼女自身わかっていなかっただろう。それでも蒼汰は、その小さな力を確かに受け取った。
◇
ギルドの宿舎に戻ると、まず湯を沸かし、零花に温かいものを飲ませた。零花は椀を両手で持ったまま、湯気をじっと見ていた。初めて見るもの全てに、名前をつけようとしているような目だった。
その様子を眺めながら、蒼汰は老師へ問いに行くことを今日も後回しにしたことに気づいた。
夜空の異変。消えていく星座。霞鳥の言葉。それらは全て、今も蒼汰の中で未解決のまま積み重なっている。
しかし今、目の前で湯気を見つめている少女が、そのどこかと繋がっている気がしてならなかった。昨夜降り注いだ記憶の欠片から生まれた零花は、消えていく星座の破片でできている。ならば彼女の存在は、夜空の喪失そのものを体に持って歩いているということではないか。
零花が不意に顔を上げた。
「ねえ」
「何だ」
「今、あなたの中で何かが動いた」
蒼汰は黙って彼女を見た。
「さっきとは違う。さっきは懐かしさだった。今は……」零花は眉を寄せた。「もっと暗い。でも、冷たくはない。熱い。追いかけようとしている何かみたいな……」
蒼汰は静かに息を吸った。
それは恐怖ではなかった。好奇心でも、使命感でもなかった。もっと根の深いところから来るもので、名前をつけるなら——
「執念、かもしれない」
呟くと、零花が小さく頷いた。まるでその言葉を自分の体の中に仕舞い込むように。
「……その感覚は、嫌いじゃないかもしれない」
零花は初めて、笑うような顔をした。完全な笑顔ではなく、笑い方を知らないまま表情が笑みの形に近づいた、そういう顔だった。
それを見て蒼汰は、今夜こそ老師のもとへ行かなければならないと思った。零花と共に。零花が身に纏っているものが何なのかを、確かめなければならない。
窓の外で、まだ昼にもならない空が、どこか落ち着かなさそうに揺れていた。