夜は、重い。
夜図界において、夜は単なる時間の名ではない。空を埋め尽くす無数の星座——記憶の光——がその質量を持ち、見上げる者の胸に静かに押しついてくる。子どもの頃から蒼汰はそれを知っていた。知っていたが、今夜の重さは種類が違った。
老師への問いをまだ口にできていない。
観測塔の最下層に割り当てられた見習い用の小部屋を抜け出したのは、夜半を過ぎた頃だった。眠れなかったわけではない。眠るのが怖かったのだ。自分の記憶の地図を広げるたびに、幼少期の欄が白紙のまま自分を見返してくる。その白さが夢に入り込んでくる気がして、目を閉じることができなかった。
塔の外壁に沿った石畳の小道を、蒼汰はひとり歩いていた。夜気は冷たく、携えたカンテラの炎が細く揺れる。顔を上げると、夜空の星座たちが今夜もそれぞれの物語を光で描いていた。誰かの初恋。誰かの別れ。誰かが渡り切れなかった橋の上で立ち尽くした夕暮れ。それらが連なって空を埋め、この世界の「歴史」そのものになっている。
——その一角が、ぽっかりと黒かった。
蒼汰は立ち止まった。昨夜まで確かにそこにあったはずの星座群が、根こそぎ消えている。見習い期間中に暗記させられた星図が頭の中で展開され、欠落の輪郭を浮かび上がらせた。東南の第七象限。中規模の記憶群が七つ、まるで誰かが指先で払い落としたように消えている。
消えた場所から、何かが降ってきていた。
最初は気のせいだと思った。視界の端に白い光の粒が舞うのを、瞬きのせいだと判断した。だが光は増えた。一粒、また一粒、そして十粒、百粒——気づけば辺りはにわかに降る雪のような光に包まれていた。音はない。風もない。ただ光の粒が、ゆっくりと、確実に、地上へ向かって落ちてくる。
蒼汰は手を伸ばした。
反射的な動作だった。訓練も思考もなく、ただ美しいものへ手を伸ばすように、掌を上に向けた。一粒の光が掌の中心に触れた瞬間——
——誰かが泣いている。
泣いているのは小さな女の子だ。蒼汰自身ではない。見知らぬ誰かの感覚が雪崩れ込んでくる。母親と呼んでいた人の手が、もうどこにもない。その不在の形が、空白の輪郭として胸に焼きつく。悲しい、というより、世界の一部が欠けてしまったような感覚。そして欠けたままで生きていかなければならないという、静かで底のない諦め——
光の粒が消えると同時に、感覚も消えた。
蒼汰は掌を見た。何も残っていない。光も、温もりも、名前も。ただ自分の皮膚だけがそこにある。
「……なんだ、今のは」
声が掠れた。喉が締まっている。自分が泣きそうになっていることに、言葉にしてから気づいた。見知らぬ誰かの悲しみが、まだ胸の奥で波紋を描いていた。他人の記憶の欠片を触れてしまった——そう理解したとき、背筋を冷たいものが走った。これが星座になれなかった記憶たちだ。夜空で結ばれることなく、形を持てないまま地上に降り落ちてくる、孤独な光の粒。
あたりを見回すと、光の粒は今も無数に降り続けていた。足元の石畳に触れたものは静かに消えていく。あるいは壁に、木の葉に、水たまりに触れて、跡形もなく消えていく。誰にも拾われず、どこにも記録されず、ただ消えていく。
拾わなければならない気がした。
地図師の本能がそう叫んだ。記録すること、保存すること、忘れさせないこと——それが地図師の使命だと叩き込まれてきた。この光の粒ひとつひとつに、誰かの人生の断片が宿っている。それを拾い上げて地図に写せば、消えずに済む。
もう一度、手を伸ばしかけたとき。
「拾うな」
声が来た。
低く、しかし澄んだ声だった。鳥の鳴き声に似ているが、明らかに言葉を紡いでいた。蒼汰は振り返った。
観測塔の外壁に、鳥がいた。
翼を広げると優に蒼汰の両腕より長くなりそうな大きな鳥だが、その姿は不思議なほど存在感が希薄だった。白ではない。白に近い、しかし白ではない色——強いて言えば、古い紙の色。使い込まれた地図が経年で変色したときに帯びるような、記憶の滲みたような淡い色をしていた。
目が、蒼汰を見ていた。金色ではなく、白金色。星の光を集めて溶かしたような色の瞳が、静かに蒼汰を射る。
「拾うな、されど目を逸らすな」
鳥はもう一度、同じことを言った。蒼汰は声を失っていた。言葉を話す鳥の存在を、知識としては知っている。夜図界に古くから伝わる使者——夜空と地上の境界を飛ぶ鳥の話を、子どもの頃に聞かされた記憶がある。しかしそれは、あくまで伝承の中の話だと思っていた。
「……霞鳥」
絞り出した声に、鳥は瞬きで応えた。
「見ていろ」と霞鳥は言った。「ただ、見ていろ。それだけでよい」
「なぜ拾ってはいけない」蒼汰は問い返した。「これは記憶の欠片だろう。地図師が拾って記録するべきものじゃないか」
「地図師が拾えるものと、地図師が拾うべきものは、違う」
それだけ言って、霞鳥は翼を少し動かした。羽根が一枚、音もなく落ちてくる。蒼汰は反射的に受け取った。指先で触れると、それは驚くほど薄かった。羽根というより紙のようで、指の腹に当たる感触は——
蒼汰は眉を寄せた。
知っている。この感触を、知っている。
地図師ギルドの古い収蔵庫に積まれた、年代物の地図。何百年も前の地図師たちが記録した記憶の地図。あの紙の感触と、まったく同じだ。
「お前は……」
「問うな、今は」霞鳥の声は静かだった。温度がなく、しかし冷たくもない。「お前には白紙がある。白紙は問いを呼ぶ。問いは道を作る。だが道は、正しい順に歩かれなければ、崩れる」
光の雨はまだ降り続けていた。無数の記憶の欠片が、石畳を、木々を、観測塔の壁を通り抜けて消えていく。蒼汰は拾わなかった。拾えなかった。霞鳥の言葉が足を縫いとめていた。
ただ見ていた。
見ていると、光の粒のひとつひとつに微かな形があることがわかってきた。ほんの一瞬、輪郭を帯びる。子どもの笑い声の形。老人が最後に握った手の形。誰かが焼き捨てた手紙の灰の形。それらが地面に消える直前に一瞬だけ輪郭を結び、消える。
見ていることしかできない無力さが、ざらりと胸を撫でた。
「これは、増えているのか」
蒼汰は空を見上げたまま聞いた。霞鳥はすぐには答えなかった。
「増えている」やがて、低く応えた。「星座が消えるほど、光の雨は増える。雨が増えるほど、空はさらに暗くなる。それが今、静かに続いている」
「誰かがやっているのか。故意に、星座を消している者がいるのか」
霞鳥は答えなかった。
蒼汰は振り返った。しかしそこにはもう、鳥の姿はなかった。外壁の上も、空の中にも、霞鳥の白金色の翼は見えない。ただ羽根一枚が、蒼汰の手の中に残っていた。
光の雨はまだ降り続けている。
蒼汰はその羽根を、地図師の革袋の中に静かに収めた。古い紙のような感触が、指先から離れたあとも残っていた。何かとても大切なものに触れた気がするのに、その意味がわからない。わからないまま、胸の奥で何かが締まるように痛んだ。
明日、老師に問いに行く。
それだけは決まっていた。星座消滅の軌跡、この光の雨、霞鳥の言葉。ひとつひとつの断片がまだ繋がらないが、繋ごうとしなければ何も始まらない。蒼汰の幼少期の地図に広がる白紙が、遠くで静かに光っているような気がした。
空では、また一つ、星座が消えた。